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39年前、まだウインターカップがウインターカップじゃなかったころ、つまり「春の選抜大会」と呼ばれていた1982年の第12回大会に専修大学附属高校(東京)は出場している。そのときもコーチングスタッフだった服部康弘コーチはこう振り返る。
「当時は出場校も少なくて(全24チーム)、ベスト8くらいまでいったんじゃないかな。最後は能代工業(秋田)に負けたんです」
それ以来の――厳密に言えば、冬の大会になってから初の――ウインターカップ、「SoftBank ウインターカップ2020 令和2年度 第73回全国高等学校バスケットボール選手権大会」は初戦で開志国際高校(新潟)に敗れた。
「すべてにおいて負けちゃって……完敗です」
専修大学附属は決してスポーツに力を入れている学校ではない。それでも39年ぶりにウインターカップに出場できたのには、しかも東京都の成績参考大会を全勝で勝ち抜いたのには理由がある。キャプテンの山下隆聖が言う。
「新チームになったときの目標が都大会ベスト4だったんです。ただ自分たちは全国的に見ても、都内でも小さいチームなので、ディフェンスからリバウンド、速攻っていうところの意識を高くしてやっていこうとしました。昨年の先輩たちもそのあたりの意識が高かったんですけど、それでも都のベスト16くらいで負けちゃって、同級生と『これじゃダメだ』と話したんです。それから練習の中でも1つ、2つレベルを上げて、細かいところもチームで声を掛け合いながらやってきたことが、成績参考大会で失点を少なくすることができた理由だと思います」
しかし全国でもトップレベルの開志国際は「一人ひとりの力が違いすぎた(服部コーチ)」。シュートの確率は高く、シュートが落ちても留学生が高さでリバウンドを制する。これまで対戦してきたチームは、公式戦、練習試合を含めて、どこかでシュートが落ちたり、リズムが崩れる時間帯があったのだが、開志国際にはそれがなかった。
「相手のリズムが崩れたときに追い上げていこうって話していたんですけど、なかなかシュートが落ちなくて、落ちてもインサイドの選手が大きくて……悪循環に陥っちゃって、自分たちの流れにできませんでした」
山下もそう言うのが精一杯だった。
もちろん負けたことも悔しいが、それ以上に悔いがあるとすれば、39年ぶりのウインターカップの出場が決まって、落ち着いてしまったことだ。全国大会の常連校であれば、そこで落ち着かずに、もう一段階も二段階も上げていくのだが、彼らにはそうした経験がない。そのことが悔しいと山下は言う。
ただ専修大学附属の選手は山下を含め、その多くがこれまでのカテゴリーで全国大会を経験したことがない。都の選抜チームに入ったこともない。そんな選手たちが意識を極限まで高めることでウインターカップに出場したことに大きな意味はある。意識がキャリアを超えたのである。
山下自身は他の高校から勧誘を受け、「練習試合があるから見に来ない?」と言われて、見に行ったときの対戦相手が専修大学附属だった。
「めちゃめちゃいいバスケットをやるな、自分に合っているなと思って選びました。勧誘してくれたことはありがたい話でしたけど、その学校も都でベスト8争いをするようなチームだったので、今はちょっと複雑な気もします」
苦笑い気味にそう言った後、山下はこう繋ぐ。
「それでも僕は専修大学附属を選んで良かったなって思います」
キャリアは自分で選び、築くものである。
文=三上太