2023.07.26

【インタビュー】五十嵐圭が語る2006世界バスケ…「この試合に勝てば、日本のバスケ界を変えられると思った」

2006年の世界選手権(現ワールドカップ)で日本代表の司令塔を務めた五十嵐[写真]=Getty Images
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 8月25日に開幕を控えるFIBAワールドカップ2023。かつてその舞台で戦った日本代表選手たちは、どのような思いで世界の強豪に挑んだのか。
 FIBAワールドカップ(世界選手権)出場経験のある元日本代表選手たちに話を聞くインタビュー連載。第1回は2006年に自国開催の世界選手権に出場し、今なお現役選手として活躍する五十嵐圭群馬クレインサンダーズ)に話を聞いた。

インタビュー=入江美紀雄
構成=峯嵜俊太郎

■日本代表になることは「全く考えていなかった」

――まずはバスケットを始めた時期を教えてください。
五十嵐 小学5年生からバスケットボールを始めました。当時は足が速い方だったので陸上部に所属をしていたのですが、故郷の新潟県は雪深い土地で、陸上の大会は春夏がメイン。秋冬はトレーニング期間だったので、その時期に人数の少ないバスケ部の助っ人を始めたのがきっかけです。

――本格的にバスケットに集中したのは中学生になってから?
五十嵐 そうですね。小学5、6年生の頃は春夏に陸上をやって秋冬はバスケットをやるという形を取っていて、中学校で初めてバスケ部に所属しました。

――当時は日本代表のチームや選手を見ていましたか?
五十嵐 正直全く。当時は「マイケル・ジョーダンすごいな」とか「マジック・ジョンソンすごいな」というくらいで、なかなか日本のリーグや選手に目を向ける機会はありませんでした。ただ、バスケットの雑誌を読むことで「実業団の選手にはこういう人がいるんだ」という情報が頭に入るようになって、中学2、3年生の頃には実業団の試合を見にいったことはありました。

――では、当時は日本代表になりたいといった気持ちも特にはなかったのでしょうか?
五十嵐 全く考えていなかったですね(笑)。当時は日本代表の試合がいつどこでやっているのかというのも、詳しく調べないとわからないような状況で、なかなかメディアで取り上げられることも少なかったですしね。

――いつ頃から日本代表を意識するようになったのでしょうか?
五十嵐 北陸高校に進んでから、U18日本代表というものが高校世代から選ばれることを知って。まずは「U18日本代表に選ばれたいな」という思いが少し出てきた、という感じですね。

――当時は能代工業高校の田臥勇太選手を筆頭に、年代別の日本代表にも実力者が多数いましたが、そこを目標にできるだけの手ごたえは感じていたのでしょうか?
五十嵐 北陸高校で1年生の頃から津田洋道監督に試合に出させてもらい、全国大会も経験していくうちにどんどん自信は芽生えていました。ただ、3年生で初めてU18日本代表候補合宿に呼ばれたんですけど、当時の自分の実力では「やっぱり田臥(勇太)すごいな」「柏倉(秀徳)すごいな」という感じで。彼らに追いつけるように一生懸命やっていくしかない、という思いでついていった感じでした。

1967年から2014年まで北陸高校の監督を務めた津田氏[写真]=B.LEAGUE

五十嵐圭がバスケ人生で一番影響を受けた言葉とは?

――年代別も含め、日本代表として初めて日の丸のユニフォームに袖を通したのはいつになるのでしょうか?
五十嵐 2001年のヤングメン世界選手権の候補にも選ばれたんですけど、最終的なメンバーには残れず。初めて日の丸をつけて戦ったのは、2002年の李相佰盃だったと思います。日本学生選抜チームの一員として韓国と対戦しました。年代別というカテゴリーでは、大学卒業後の2003年にU24日本代表としてユニバーシアード競技大会のメンバーに選ばれたのが初めてだと思います。

――ユニバの最終メンバーに選ばれた時の心境はいかがでしたか?
五十嵐 素直にうれしかったです。ただ、同年代の柏倉や網野(友雄)はもうA代表にも選ばれていたので。自分もいずれはA代表に選ばれるように、まずはU24日本代表としてしっかりと結果を出す、という思いでした。また、日立サンロッカーズに入団したばかりの頃だったので、日本のリーグでもしっかり結果を出さなきゃいけないと感じていました。

――そしてユニバ終了直後にジェリコ・パブリセヴィッチHC率いるA代表に初選出されます。
五十嵐 これは直接本人から聞いていないので定かではないのですが、ちょうどA代表で節政貴弘さんが足首の手術をして離脱するということがあって、「U24から1人ガードを」という話になった時に、ユニバの監督だった佐藤久夫先生が僕をA代表に推薦してくれたそうです。

当時はU24日本代表を指揮していた佐藤久夫氏(写真は明成時代)[写真]=伊藤大允


――初めてのA代表活動、思い出はありますか?
五十嵐 ユニバが終わってすぐ、これからアテネオリンピック予選(兼アジア選手権)に向かうというタイミングでの合流だったので、最初はどちらかというと雑用みたいな感じでした(笑)。当時は渡邉拓馬さんがメインのポイントガードで、控えに柏倉がいて、僕は何かあったときの3番手。何日か練習してすぐに開催地の中国に行きました。

――そしてその大会初戦でA代表デビューを果たすんですね。
五十嵐 そうですね。初戦のフィリピン戦で拓馬さんと柏倉がどちらも退場してしまい、僕しか出る選手がいない状況になって。そこで出た時に、少しジェリコHCの印象に残ったのか。それ以降も試合に出させてもらえるようになりました。

――いきなりのデビューでA代表のレベルについていくのは大変だったかと思います。
五十嵐 とにかくついていくので精一杯でした。その頃から自分の得意なプレーは“スピード”しかないと分かっていたので、試合に出たときは流れを変えるとか、とにかく自分がボールをプッシュするというイメージでしたね。けれど、大会が終わった後にジェリコHCから「まさかあなたがこれだけやれるとは思っていなかった」と声をかけてもらって。加えて、「スピードはあなたの武器だけど、そのスピードに技術的が追いついていないから、それは所属チームでしっかりやってくれ」という話をされたことを覚えています。

五十嵐を始め、若手選手を次々と日本代表に抜擢したジェリコHC(写真は奈良時代)[写真]=B.LEAGUE


――当時のジェリコHCは五十嵐選手だけでなく、竹内兄弟や柏木真介選手といった若手を抜擢し、厳しいトレーニングで鍛え上げていました。皆さんの選手寿命が長いのは、ジェリコHCの影響もあるのではないでしょうか?
五十嵐 よく言われますね(笑)。僕自身現役を続けていられるのも、あのときの経験があったからかなと思います。最初は付いていくので精一杯でしたけど、この人に付いていけば必ずレベルアップできると信頼していましたし、それが2004年、2005年、そして2006年の世界選手権へと結びついていったのかなと思います。

――プレースタイルへの影響もあったのではないでしょうか?
五十嵐 そうですね。今でさえポイントガードが得点を取るようなスタイルが普通になりましたけど、まだその当時はどちらかというとゲームをコントロールしたりとか、ポイントガードはこうであるべきみたいなスタイルだったのをジェリコHCが変えてくれました。「ポイントガードでも得点を取りに行かなければ、世界では戦っていけない」というのを彼に教えてもらえた。その時の代表での経験、特にジェリコHCからの教えというのは僕にとってはかなり大きいです。

――印象的な言葉はありますか?
五十嵐 「スピードを武器にしろ、それは世界にも通用するから」と言ってもらえて。彼のその言葉は、僕のバスケット人生でも一番と言っていいぐらい影響を与えてくれた言葉でもありますし、今もそれを胸に現役を続けています。もう43歳になると、なかなかスピードスピードってあんまり言えないですけど(笑)。

■「あの時経験した悔しさは今でも覚えている」

当時34歳の節政(左)と36歳の折茂(右)が本大会メンバーに選出された[写真]=Getty Images


――そして迎えた2006年の世界選手権。若手中心のメンバーに折茂武彦さんと節政さんというベテランが加わって、チームの雰囲気はいかがでしたか?
五十嵐 リーグで結果を残しているベテランの選手たちが入ってきてくれるというのは心強かったです。競技は違うんですけど、イメージ的にはサッカーの日韓ワールドカップの時に、中山雅史選手と秋田豊選手が日本代表に入ったような形。自分たち若い選手がやりやすい環境をお二人は作ってくれましたし、すごく頼りにしていました。

――実際に世界選手権のコートに立ったときの感覚はいかがでしたか?
五十嵐 いやぁ、今までバスケット人生で味わったことのないような感覚でしたね。5000人以上のファンの方たちの前で試合をするという経験もほとんどなかったですし、世界選手権という大きな舞台で、自分が日の丸をつけて、スターターで、中心選手としてコートに立っている感覚というのは…。今までのバスケット人生のなかでも、あの感覚はあの時にしか感じたことがありません。ひとつの夢がかなった場所でもあり、同時に日の丸を付けている責任感や重みも感じていて。あの感覚は言葉ではなかなか表現できないですね。
――初戦の相手は奇しくも今大会と同じドイツ代表でした。
五十嵐 当時のドイツ代表は、翌年NBAでシーズンMVPを受賞するダーク・ノビツキーがいるチームで、前年の欧州選手権で準優勝していた強豪。そんなドイツ相手に最終的には11点差(70-81)で負けてしまったんですけど、個人的には世界に近づけたと感じました。勝つことはできなかったんですけど、今まで3年間ジェリコについてきて良かったなと思いましたし、すごく自信につながった試合でした。

日本戦で27得点10リバウンドを記録したノビツキー[写真]=Getty Images


――続くアンゴラ戦には62-87で敗れますが、3戦目のパナマ戦では78-61で大会初勝利を挙げます。
五十嵐 どちらかというと照準をアンゴラ戦に合わせていたんですけど、結構大差をつけられて負けてしまい、「簡単じゃないな」とは感じさせられました。けれど、次に負けたら終わってしまうという状況が、逆にもうやるしかないというマインドを産んで、パナマ戦では自分たちらしさが出せて勝てた。ひとつ勝利できたというのも、また自信にはなりました。

――そして1次ラウンド突破がかかったニュージーランド戦は、前半18点リードしながらも、最終的に57-60で敗れる結果となりました。
五十嵐 この試合に勝てば、日本のバスケットボール界を変えられるという思いで臨んだ試合でした。そんななか、前半は僕がジェリコ体制でやってきたなかでも一番と言っていいぐらい完璧な出来だったんです。ただ、ニュージーランドも前回大会ベスト4の強豪で、実力のある選手たちがそろっていたなかで、「そんなに簡単じゃない」と思い知らされました。自分たちの大舞台での経験のなさというのが、試合の後半にすべて出てしまった。個人的にもそこで「自分が何とかする」というプレーヤーになりきれておらず、折茂さんばかり見てしまったんですよね。だからあの時経験した悔しさは今でも憶えていますし、それが今もバスケットを続けている要因の一つにもなっています。あまり思い出したくないですけど、あの一戦は本当に自分にとって大きな試合でした。

当時、大きな責任感を背負いながら戦った五十嵐[写真]=Getty Images

■自国開催は「日の丸を背負う重みもより感じる」

――2023年大会も開催国としての参加。2006年に日本のバスケットボール界を変えるという思いで戦った五十嵐選手は、今大会に臨む日本代表にどのようなことを期待しますか?
五十嵐 自国開催であるプレッシャーもあるでしょうし、日の丸を背負う重みもより感じると思います。逆に言えばそれだけ期待されているということなので、いい意味でプレッシャーを楽しみながらプレーしてもらいたいです。

――久々に世界大会での勝利にも期待したいですね。
五十嵐 そうですね。オリンピックと比べて今回のワールドカップにはレベルが近い国も出てくると思うので、そういったチームとどういう戦い方ができるのか。そして上位のチームとはどういった戦いができるのか注目しています。トム・ホーバスHCはジェリコHCと一緒で、サイズがなくても戦えるような日本人の特徴を活かしたスタイルだと感じるので、どんな戦いを見せてくれるのかすごく楽しみです。

――個人的な注目選手はいますか?
五十嵐 やはり同じポイントガードの富樫勇樹選手と河村勇輝選手。特に富樫選手は、同じ新潟県人として頑張ってもらいたいです(笑)。前回のワールドカップはケガで出場できなかったり、東京オリンピックでもBリーグで見せている“彼らしいプレー”が見られなかったので、今回はすごく期待しています。Bリーグトップのガードだと思いますし、サイズが関係ないというところを改めて見せてほしいです。

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