2024.07.19
昨夏沖縄開催で大いに盛り上がったFIBAバスケットボールワールドカップ 2023、映画『スラムダンク』がブームになるなど、バスケットボールへの視線が熱い。Bリーグにおいても、B2の越谷アルファーズがB1昇格を決め、埼玉県初のB1チームが誕生することとなった。プレーオフセミファイナルでの接戦を制しての悲願達成は、選手の奮闘、安齋竜三ヘッドコーチの手腕、チームを信じ続けた熱烈なファンの存在など昇格の要因は複数あるが、このチームを陰に日向に支え続けたゼネラルマネージャー(GM)青野和人さんの献身も見逃すことができない。スポーツに携わった者なら誰しも一度は憧れるスポーツクラブのGM。青野さんは一体どのようなキャリアを経て、このポジションにたどり着いたのか、そして一見華やかに見えるが意外と知られていないGMの役割について話を聞いた。
取材=村上成
撮影=須田康暉
――青野さんの選手としてのご経歴ですが、東海大学付属第三高校(現 東海大諏訪)から京都産業大学を経て、1999年にバスケットボール日本リーグ2部の大日本印刷イーグルスへ入団。身長181センチにも関わらず、高い身体能力を活かして垂直飛びで両手のダンクシュートもできる非常にアスリート能力の高い選手だったと伺いました。
青野 はい。当時のバスケットボール界はトップリーグでも数人しかプレイできない狭き門でしたが、ご縁があって大日本印刷への入社が決まりました。ただ、入団して2回目の練習の際に、突然、今年でバスケットボール部が廃部になると聞かされまして・・・。バスケットボールだけに集中して生きてきていたので、いきなり目の前で幕を下ろされたというか、どうしていいのか分からない状態でした。
――2003年にはNBA主催の6フィート以下選手が参加する3x3の大会で全米優勝をするなど、持ち前のアスリートの能力を活かして、体格の大きな相手ともしのぎを削ったとお聞きしました。アメリカでの武者修行を終えて、日本に戻りbjリーグの埼玉ブロンコスに入団されたのでしょうか?
青野 最初は腕試しだった見せかけのコーチ留学も、学びを進めるうちに本当にトライすることになりまして、そのままアメリカに永住しようと考えていました。しかし、日本でbjリーグが新たに立ち上がると聞き、身体も動きますし、トライアウトを受けようかという気持ちになったんです。
―――bjリーグができた。凱旋帰国をして、アメリカでの武者修行の成果を発揮して大活躍を…。
青野 いやいや。全くです(苦笑)bjリーグは、当時の日本バスケットボールリーグ1部と2部の真ん中くらいの実力だったと思いますが、それでもその中でバスケットボールIQが高い選手たちと触れる機会も多く、まずは飛んでから考えるような自分のプレイスタイルでは周囲の選手の頭の良さに敵わないことが身に沁みてわかりました。すでに年齢を重ねていたこともありますが、ずっと能力任せでやってきたところから、清水太志郎(現 三遠ネオフェニックスコーチ)や安斎竜三(現 越谷アルファーズヘッドコーチ)など豪華なチームメンバーの中に割って入る実力は自分にはありませんでした。
――自信をつけて帰国したものの、思っていた感じと違うなという戸惑いがあったのではないですか?
青野 1年目は、ほぼ全試合出場することが出来ましたが、プレイタイムは短く、挽回を期した翌シーズンへの準備中にオーバートレーニングで、アキレス腱拮抗部の肉離れを発症。同じ怪我を繰り返している間に、気が付けばプレイタイムがゼロになっていました。
――ケガを繰り返す厳しい状況となった訳ですが。その時にご自身の次のキャリアを思い、不安を感じることはありませんでしたか?
青野 いえ。今でも良く覚えているのですが、怪我は多かったもののキャプテンを務めあげたシーズンが終わり、翌シーズンこそは完治させて復帰するんだ!という気持ちでした。ところが、元NBAの選手デービッド・ベンワー(元ユタ・ジャズ他)が同じ埼玉ブロンコスに所属していて、彼が引退して、コーチに就任という話になったんです。復帰する気満々だった私ですが、「俺の右腕になってくれ、右腕になってくれって」とベンワーが家まで押しかけてきて口説かれて。いやいや選手やらせてくれよという感じだったのですが、連日連夜口説かれると・・・。一生の間にNBAを経験した選手にこんな口説かれるなんてなかなかないだろうなと思ってしまい「じゃあ、君を日本一のコーチにするよ!」と意思を固めてコーチの道に。引退して彼をサポートする道を選びました。
青野 突如訪れた現役の幕引きでしたが、今だから言えますが「早くコーチ業に入ってよかったな」と思います。そのまま現役に固執していたら、コーチ業という椅子取りゲームで言えば、もし引退するタイミングが遅ければ、今のポジションはなかったかもしれません。
――現在の温厚な青野さんに、そのような印象は全くないですね。
青野 デビュー戦で退場になるってなかなか聞かないと思うんですが、当時はキリキリしていたのでしょう。今でこそ、若年化が進んでますが、当時34歳でヘッドコーチに就任というのは、なかなかに若く。そこでの失敗が今では非常に良い教訓となっています。当時から「俺の言うことを聞けよ」とは一切思っていないつもりでしたが、第三者から見ると、そう思われてもおかしくない振る舞いだったのかもしれません。スタッフへのケアがあまりできておらず、選手のことばかりが気になっていました。スタッフ自らが積極的に提案するよう自主性を促し、方向性は私が示すような形が良かったのではないかと反省しています。所属していた選手は、素晴らしい選手をそろえていただいていましたし、焦りやプレッシャーもあったのかもしれません。
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