Bリーグ公認応援番組
『B MY HERO!』
「私はお母さん役。選手たちには楽しんでバスケットをしてもらいたいと思っています」
今春より明星学園高校(東京都)の指導にあたっている楠田香穂里コーチは、新天地での思いをこのように語った。
故・椎名眞一氏が全国の強豪校へと育て上げた明星学園は、インターハイ47回、ウインターカップは30回の出場を誇る名門校。本橋菜子(東京羽田ヴィッキーズ)を筆頭に卒業生にはトップリーグで活躍する選手も多い。
だが、その明星学園は、椎名コーチが勇退してからの約3年間、指導者が幾度か代わり、さらには2023年に入ってからは指導者が不在の状態となっていた。そこに、白羽の矢が立ったのが楠田コーチだ。
楠田コーチは現役時代、日本を代表する選手で、旧姓・川上という名前を聞いてピンと来る人もいるだろう。宮崎県出身で、小林高校(宮崎県)では、1年生の頃から全国で活躍し、卒業後はENEOSサンフラワーズ(当時はジャパンエナジー)に入団。11シーズンをプレーすると、皇后杯やWリーグで幾度となく優勝を経験した。ENEOSの黄金時代の礎を築いた選手といって過言ではないだろう。
日本代表でも主軸を担い、アジア競技大会やワールドカップ(当時は世界選手権)に出場。2004年のアテネでオリンピック初出場を果たすとともに、同大会を最後に現役を引退した。
その後、クリニックやスクールなどを通じてジュニア期の選手たちの育成に尽力し、2010年には共栄大学女子バスケットボール部の創部とともに監督に就任する。約12年間にわたって同チームを率い、2018年には女子日本代表のアシスタントコーチとしてアジア競技大会に出場している。
これだけの輝かしい経歴を持つ楠田コーチだが、もちろん、今の高校生たちは彼女の選手時代を知るわけではない。実際、初対面のときに楠田コーチが「私のことを知っている?」と聞くと、選手たちは「WEBで調べました」と口をそろえたという。
いくら名プレーヤーでも高校生たちとの信頼関係はゼロからのスタート。そのため、楠田コーチは、「息子と旦那も選手たちと合いました。家族のことも含めて私はこういう人間ですよということを知ってもらうために、全部をさらけ出しています」という。ちょうど、長男は高校3年生。冒頭、「お母さん」というのには、自身の子供が選手たちと同年代ということもある。
その楠田コーチにとって、明星学園を引き継ぐことは、決して簡単な決断ではなかった。それでも、約4カ月間を指導者がいない中で頑張ってきた選手たちや、伝統チームがもしなくなってしまったらという危惧。さらには「明星学園から共栄大学に進んだ選手もいて、椎名先生にはお世話になっていました」という感謝の気持ちもあった。すべてが重なり、加えて共栄大学はアシスタントコーチに託せる状態でもあったため、楠田コーチ自身の「新たなチャレンジを」という思いもあって、明星学園のコーチという大役を引き受けることを決めた。
「私もあなたたちを信じるから、あなたたちも私を信じてほしい」
そんな言葉で始まった新たな挑戦だが、楠田コーチは、「選手は、自分たちだけでやっている期間があって、そこは私自身、すごく信頼しています」という。だからこそ、「何かあったときはあなたたちの言葉を優先させる」とも選手たちには伝えており、実際に6月10、11日の期間で行われた「関東高校女子大会」の試合では、ディフェンスをゾーンにするかマンツーマンにするか、選手の意見をもとに決めて勝利した試合もあった。
「マネージャーもしっかりしているので、私の方で何かを言わなくても率先して動いてくれます。選手たちも分析力があって、自ら(対戦相手の)映像を見ています」と、選手たちのことを語る楠田コーチの表情は実ににこやかだ。そして、「責任感があり、本当にハートのある子たち…」と続けたとき、声を詰まらせ、涙が頬を伝った。
「伝統校なのでもちろんプレッシャーはあります。でも、私自身がいろいろな方たちに学ばせてもらっています」と語る楠田コーチは、「共栄大学のときもそうでしたが、みんなから応援されるチームになっていきたいなと思っています」とも発する。
現役時代のコートネームは太陽からとったサン(Sun)。「サンサンと照らし、みんなを明るくするように」という由来のとおり、今度は新天地で15人の部員をのいく先を楠田コーチが明るく照らていく。
取材・文・写真=田島早苗