2023.07.12

恩師の意志を継ぐ畠山俊樹の指導者人生がスタート「僕が明成のコーチになるのは宿命でした」

高校東北大会にて。「選手の可能性を伸ばしてあげたい」と語る畠山俊樹コーチ [写真]=小永吉陽子
スポーツライター。『月刊バスケットボール』『HOOP』編集部を経て、2002年よりフリーランスの記者に。国内だけでなく、取材フィールドは海外もカバー。日本代表・Bリーグ・Wリーグ・大学生・高校生・中学生などジャンルを問わずバスケットボールの現場を駆け回る。

経験を伝えるために母校のコーチに就任

 6月末に行われた東北大会において、仙台大学附属明成高校(以下明成)は、準決勝で福島東稜に1点差で敗れた。これまでチームを全国屈指の強豪へと育て上げた佐藤久夫コーチが6月8日に急逝。天国にいる恩師に勝利を届けたい一心で戦った選手たちは肩を落としていた。この東北大会では、これまで佐藤コーチの右腕となって支えてきた高橋陽介コーチが試合の采配を行い、母校のコーチに就任したばかりの畠山俊樹がアシスタントとしてサポートしていたが、悔しがる選手たちを見て、畠山コーチは自身の高校時代と重ね合わせていた。

「高校時代、僕らもいっぱい負けたけど、そこから学んで成長することができました。彼らも同じ。この大会で粘りが出てきたので、ここからです。この悔しさを練習にぶつけられるかどうか」

 今から14年前の2009年――。明成は創部5年目でウインターカップ初制覇を遂げた。この年の3年生は、畠山キャプテンを筆頭にやんちゃな選手が集まった代で、毎日のように佐藤コーチから叱責され、東北大会は新人も夏もベスト4で敗戦し、インターハイはベスト8。最後のウインターカップでチームが一つにまとまり、悲願の初優勝へと駆け上がったのだ。だから伝えたい。「負けてもそこから学んで這い上がればいい。成長するための努力こそが大切」だと語る畠山コーチは、自身の経験を伝えるために母校に戻ってきたのだ。

「あと1年」の現役生活から転じたコーチへの道

2023年5月、惜しまれながらも9年間のプロキャリアにピリオドを打つ [写真]=小永吉陽子

 畠山俊樹越谷アルファーズからの現役引退を表明した5月中旬、SNS上では引退を惜しむ声であふれていた。出場時間は短くなっていたものの、コートに出れば誰よりも運動量の多いディフェンスで相手を翻弄し、チームメイトを鼓舞する役割として欠かせない存在だった。それだけに、32歳の誕生日を目前にしての引退は早すぎる決断ともいえた。実際のところ、越谷での契約はあと1年残っていたという。しかしシーズンの終盤から、引退の二文字がちらつくようになっていたのも事実だった。

 以前から、恩師の佐藤コーチには「明成でコーチをしないか」と声をかけられており、今から1年半前の2022年の年明けには後継者として正式な打診を受けていた。これまでは現役選手であることから引き受けることができなかったが「次のステージに進む時が来たのでは」と心が動き始め、シーズン終了後に恩師に相談に行くつもりでいた。畠山はプロ選手でありながらもシーズン中もスクール活動で子供たちを指導しており、引退後は指導の道に進む覚悟はできていた。そんな矢先、佐藤コーチが病気療養中という知らせが入った。故郷の仙台に帰って恩師を見舞ったときには、「母校のコーチになる」と決断を下している自分がいた。

「コーチを引き受けたのは、久夫先生に治療に専念してほしかったのはもちろんですが、何より僕自身が可能性のある選手たちを成長させてあげたい思いがあったからです。あと1年の契約をまっとうしたい思いもありましたが、それ以上に、明成のコーチとしてやっていきたい思いが強かった。これもタイミングというか宿命ですね。僕の気持ちを尊重してくれた越谷のフロントには本当に感謝しています」

高校時代の病気克服とコーチ経験が転機

高2の時にコーチングの経験と病気を克服したことがバスケ人生の転機になった [写真]=小永吉陽子


『宿命』――母校のコーチになることをそう表現した畠山には、高校時代に大きな転機があった。高校2年の春に不整脈と診断され、激しい運動を禁止されてしまったのだ。主力選手から一転。大好きなバスケを奪われてしまい、絶望の淵にいた少年を救ったのは恩師からの「コーチとして勉強してみないか」という一言だった。最初は気持ちを切り替えるのが難しかったが、次第にコートから離れて佐藤コーチの言葉に耳を傾けてみると、選手時代にはわからなかったことに気付く。ウインターカップ優勝後にはこのようなコメントを残している。

「選手のときは久夫先生に怒られたら『何クソ』と思っていたけど、外から見ていたら、先生がみんなのことをどれだけ期待しているのかが見えてきました。先生はいつも本気で僕らにぶつかっていたので、選手がその期待に応えたら、コーチはうれしいものなんだろうなあ…というのが、わかった気がします」

 明成は夏休みになると、すべての運営を部員たちで行う他校との合同キャンプを開催しているが、そのキャンプで佐藤コーチは畠山にBチームの采配を任せている。当時高校2年。先輩も後輩も関係なく、大きな声で指示を送る姿を見て佐藤コーチは「俊樹は指導者に向いているなぁ」と、うれしそうにその采配ぶりを見つめていた。今では本人も「このときの経験があったから、コーチングの面白さに気付けたのかもしれません」と言うほど、人生における大きなターニングポイントになった。

 その後も治療を続けながら部活動に参加し、病院を何度か転院し、選手への復帰許可が下りたのは2年のウインターカップ前のこと。復帰後も何度か体調不良で休み、復帰を焦るあまり膝を負傷したことで、約10カ月もプレーからは離れてしまったが、再びコートに立てる喜びでいっぱいだった。体のキレが戻ってきたのは3年の秋頃だろうか。それまでは得点もゲームメイクも「俺が俺が」と気負いすぎることで、佐藤コーチからはポイントガードとしての合格点は与えてもらえなかった。それが、チームを外から見たことで仲間を思いやり、周りを生かす我慢のゲームコントロールができるようになっていたのだ。

 10月、ウインターカップ予選の決勝で司令塔の役目を務め上げた畠山は、ベンチでチームメートから「お帰り!」と言わんばかりの熱い出迎えを受けている。そして、キャプテンの完全復帰を喜ぶ佐藤コーチの目に光るものが見えたのは、畠山の高校時代を語るうえで忘れられないエピソードである。病気を克服し、敗戦から学び、小さなガードが生きるための技術を習得した高校時代。困難に打ち克って這い上っていく生き方を教えてくれたのは、恩師である佐藤久夫だ。だから言う。「僕が明成のコーチになるのは宿命でした」――と。

恩師からの言葉「ゴーイングマイウェイ」

完全復帰をアピールしたウインターカップ予選。佐藤コーチと仲間に出迎えられる [写真]=小永吉陽子


 高校バスケの一時代を築いた名将の跡を継ぐことに、プレッシャーがないといったら嘘になる。「今は選手一人ひとりの特徴を覚えて、どう伝えたらいいのか考えています。でもそれが楽しい。可能性ある選手ばかりだから伸ばしてあげたい。これからは一生、勉強勉強の毎日です」

 そんな新米コーチに対して、恩師は生前に仙台弁でこんなエールを贈っている。「俊樹は戦い方を知っているからきっと個性的なコーチになるよ。自分の道を行けばいい。ゴーイングマイウェイだべ」

 Going My Way――この言葉には「自分のコーチングを見つけろ」という思いが込められている。佐藤コーチは常々「誰かのコピーではなく自分のコーチングを」と語り、移りゆく時代の中で探求心を持ち続けてきた。本人もこの言葉を支えに自分らしいチーム作りを目指す決意だ。それと同時に、恩師の意志も受け継ぐ。日本一に輝いたウインターカップでは、畠山の体を張ったルーズボールに東京体育館の観客が拍手で沸き返ったほど。いわば畠山俊樹は『久夫イズム』の体現者である。だからこそ「ルーズボールやディフェンス、リバウンドの球際を頑張って、最後まで走るバスケをやりたい。それはもう僕の体に染み込んでいるので」と笑う。そのうえで、プロキャリアを経験した者としてこう語る。

「僕がプロとして大切にしてきたのは、試合に対して心も体も頭も準備をして、自分のやるべきことをやる姿勢です。越谷ではGMの青野(和人)さんから人と人のつながりの大切さや、(安齋)竜三さんからはディフェンスの重要さを改めて教えてもらいました。これまで支えてくれた方々に感謝をして、そして心の中にいる久夫先生と一緒に、僕なりの明成バスケを作っていきます」

 自分を育ててくれた体育館で高校生たちと格闘する毎日が始まった。インターハイまでは高橋陽介コーチが采配し、その後は2人でタッグを組みながら、畠山俊樹コーチが指揮を執る予定だ。

チーム練習後には、個人のワークアウトも指導。母校で選手たちと向き合う毎日 [写真]=小永吉陽子


文・写真=小永吉陽子

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