2023.08.22

【インタビュー】高2で渡米し大学からオファー殺到…テーブス流河「兄の足跡は僕の道しるべ」

アメリカで奮闘するテーブス流河[写真]=本人提供
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 報徳学園2年生の夏に渡米して、すぐに全米大学体育協会(NCAA)1部(DⅠ)の大学からオファーを得たテーブス流河。その後もオファーの数は増え続け、大学入学までまだ1年以上を残した7月、10校目のオファーとなったボストンカレッジへの進学を決めた。

 兄の海(Bリーグ・アルバルク東京)と同じく、AAU(Amateur Athletic Union:学校の部活のオフシーズンにクラブチームの活動として行う組織で、高校同様大学から勧誘を受けるきっかけとなる)の注目の大会に出場するエリートチームで全米トップクラスの高校生達と戦うという特殊な経験もしている。

 最後のAAUシーズンを終え、日本に一時帰国したテーブスに聞いた。

インタビュー・文=山脇明子

■「どんどん挑戦していけ」発破かけられ高みを目指す日々

――AAUのシーズンがようやく終わりました。部活のオフシーズンは全米を飛び回った2年間でしたが、いかがでしたか?
テーブス いろいろなところに行けるのはすごくありがたいことですが、夏休みのほとんどが潰れてしまいました。でも休みなしでやるしかないですし、結局はバスケットボールをやっているので楽しかったです。

――全米のハイレベルな高校生たちとプレーしたことで刺激も受けましたか?
テーブス そうですね。上手い人とやればやるほど刺激になりますし、上手い人とやる時は結構燃えます。AAUとは違いますが、最初に通っていたノースフィールド・マウント・ハーモンスクール(以降NMH)の時に、テキサス大学から今シーズンジョージタウン大学に転校した先輩でローアン・ブランボウという選手がいたのですが、彼とは毎日一緒に練習をやっていて、それで上手くなりました。普段からレベルの高い人たちとやっていると上達するし、刺激を受けます。

――高校はNMHからニューマンスクールに転校しましたね。
テーブス はい。兄がNMHに通っていた時にジョン・キャロル監督からとても良く指導を受けたそうで、『行ったら?』と勧められて行きました。すごく強いチームだったのですが、僕の1年目が終わった時に練習時間が短くなるなど学校のバスケ部における方針が変わって、NMHのアシスタントコーチがニューマンスクールの監督になり、キャロル監督もニューマンスクールを手伝うことになったので、僕も転校しました。

――初めてアメリカでバスケをした時はどうでしたか?
テーブス 最初に大変だったのは、フィジカルの違いです。みんな大きくて、スピードも結構違って、当時のNMHはみんなすごく強い感じで、その中にポツンと入れられて(笑)。コーチから『せっかく日本から来ているんだし、みんなお前より上手いからどんどん挑戦していけ』と言われて、毎日追いつこうという気持ちでやっていました。そういう思考でやっていたら、下のチームからトップチームに上がり、シーズンの途中からスターターになりました。最初は結構困りましたが、すごく集中していましたし、ああいう中にいたからこそ早くレベルアップできました。恥ずかしがらずに毎日練習に挑めたのが良かったです。

――その短期間で“成長できた”と感じた部分はどこでしょうか?
テーブス まずはフィジカルとスピードに順応することができました。あとはプレーメークです。チームをどんどん絡めていけるというのは、あのチームの中で自分の強みだと気づきました。そして空いていたら打つ。そういう感じでどんどん上がっていけました。

■ ボストンカレッジへの進学を決断した理由は…

体格差にも順応しながら自らの価値をアピールしてきたテーブス流河[写真]=本人提供


――アメリカに来てすぐに大学からオファーが来ましたね。その時の気持ちは?
テーブス 兄もオファーはもらっていましたが、たくさん来たわけではなかったので、どこかからオファーをもらえてDⅠでバスケができたらいいなという気持ちでアメリカに行きました。だから、まさかあんなに早くもらえるとは思いませんでした。オファーをもらってからは、『自分ならもっといける』とモチベーションが上がりました。

――高校卒業はまだ1年後という時点でボストンカレッジに進学を決めた理由は何だったのでしょうか?
テーブス まず、ACC(アトランティックコースト・カンファレンス)というハイメジャーのカンファレンスで、デューク大学やノースカロライナ大学などハイレベルな大学と試合ができるという環境もありますし、そこで1年生からプレーできるチャンスは、ボストンカレッジでないと無いと思いました。(NMHとニューマンスクールでプレーし)今ではボストンが第2の故郷のようになっているというのもありますし、自分のスポットが(他のリクルートされた選手で)埋まらないうちに決めたいとも思いました。

――オファーをくれた大学からは、どういうところを気に入られていましたか?
テーブス プレーメークとシュートが一番注目されたと思います。コーチによって違うと思いますけど、その中で共通していたのが、その二つです。

――DⅠに行っていたお兄さんからアドバイスはありましたか?
テーブス 兄は『自分のやりたいことをやればいい』と言ってくれて、僕のことをすごく信じてくれています。『お前ならNBAに行ける。どんどん上を目指して頑張れ』といつも応援してくれて、とてもありがたいです。

■ 兄の背中を励みに「最高の自分を目指して」

兄が背負った日の丸への思いも口にしたテーブス流河[写真]=本人提供


――兄・海さんがお父さん(富士通レッドウェーブのBT・テーブスヘッドコーチ)と練習していた時、6歳下でまだ小さかった流河選手は横で遊びながら見ていたそうですね。その時は子供心ながらどんな気持ちで二人を見ていましたか?
テーブス 自分は小さかったのですが、その時からハングリー精神が育まれていたと思いますし、そういう意味を込めて父もやっていたんじゃないかなと今になって思います。『やりたい』とずっと思っていて、『自分の番が来たら、全力でやろう』という思いがありました。それは今でも変わりません。ああいう経験があったからこそ、今があると思います。

――お兄さんはDⅠでプレーしたいという夢を叶えた一方、途中で日本のプロに転向する決断を下しました。現在は日本で活躍されていますが、そこに辿り着くまでには悩まれたこともあったと思います。
テーブス 兄が何回も挫折を繰り返していて、そこから立ち直る姿を見てきたので、その姿が僕の力になっています。そういうことを経験しているからこそのアドバイスもくれますし、そのお陰で僕はより楽に前へ進むことができています。兄が残してくれた足跡は、僕の道しるべになっています。

――海選手はワールドカップの日本代表候補に入っていました。流河選手は日本代表へどのような思いを抱いていますか?
テーブス 入りたいという気持ちは強いですし、それが一つの目標でもあります。でもそこに辿り着くためにやらなければならないことは、目標に集中し過ぎず自分に集中して、いかに自分の今の生活や今のトレーニングを改善していくか、今の自分を高めることができるか。それができれば、そういった目標が達成できると思います。とにかく、今の自分をどのように向上させればいいかということを常に考えています。

 U19ワールドカップ(6月24日~7月2日・ハンガリー)の時には招待して頂いたのですが、(大学進学がかかる)AAUのシーズンがあったので残念ながら行けませんでした。U19の試合は全部観ましたし、U15からの知り合いがたくさんいるので観るのが楽しかったです。一緒にプレーしたくもなりました。

 これからも日本代表を目指す気持ちに変わりはありませんが、まずはその時々で、自分がなれる最高の自分になり、辿り着けるものに到達したいです。そこに日本代表やNBAが入っていればいいなと思いますし、それはヨーロッパかも知れません。最高の自分を目指してこれからも頑張り続けていきたいです。

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