Bリーグ公認応援番組
『B MY HERO!』
10月14日に開幕するWリーグ。その舞台にはじめて立つ新人選手の一人が、ニューメキシコステイト大からシャンソン化粧品シャンソンVマジックに入団した志田萌。世界有数のスポーツ選手育成校IMGアカデミーのキャンプに参加したことをきっかけに渡米、IMG、短大を経て全米大学体育協会1部(DⅠ)の同大に編入。そして今年、目標だったプロ入りを実現させた。
シャンソン入りが決定したときの志田の心境を進路がプロに急展開する前に聞いた話とともに紹介する。
取材・文=山脇明子
――1年プレー資格が残っていた大学5年生のシーズンをDⅡのネブラスカ大カーニー校に転校してプレーすることがほぼ決まっていた中、シャンソン化粧品に行くことになったいきさつについて教えてもらえますか?
志田 まだ学校が確定していないときにとりあえずということで、Wリーグのプレーオフの試合を見た中で印象に残っていたシャンソン化粧品の鵜澤潤ヘッドコーチにハイライト(ビデオ)を送ってみました。ダメ元で送っていたので、「返信がくればラッキーだな」というくらいの気持ちでした。
ハイライトを送ったときにはプレーオフを見た感想と今後自分が目指したい場所、一時帰国している間に興味を持っていただけたら、練習に参加させてもらったりお話をうかがいたいとお伝えしました。そこで返信をいただけて、トライアウトという形で練習に参加させていただきました。
ハイライトを送ったのは、(転校の)サインはまだしていない状態だったのですが、行く大学もほぼ決まっている中で自分がどこまでできるか知りたかったというのと、出来ないところを見つけて、あと1年アメリカでプレーする間に克服しようというのが一番にありました。
でもトライアウトが近づくにつれ、その意識はどんどん「このチャンスを掴みたい」という強い気持ちに変わっていきました。2週間のトライアウトは上手くその気持ちを表現できたと思います。
――背番号「24」は、どういう理由からつけたのですか?
志田 本当は、ずっと昔から「(プロ)デビューは8番」と決めていたんです。(小3のときから好きだった)コービー・ブライアント(元ロサンゼルス・レイカーズ)も最初は「8」だったので。そこから「24」にして引退というプランでした(笑)。でも8番は先輩が背負っていらっしゃるので、恐縮ですがデビューから24番を背負わせてもらうことになりました。
――これからの意気込みをお聞かせください。
志田 初心を忘れないで、今までどおり自分らしくやることです。プロになったからといって何も変わることはありません。私ならできると信じています。ここからはシビアな世界になっていくので、やった者勝ちです。挑戦し続けて成長します。
志田は、「アメリカの大学で結果を残してプロになる」という計画を自ら立てていた。ところが、ニューメキシコステイト大では出場機会が限られた。そのため、あと1年アメリカに残って結果を残し、それからプロに挑戦するつもりだった。
卒業を前にした4月、ロサンゼルスでトレーニングをしていた志田に大学2年間を振り返ってもらった内容は次のとおり。
――2月に今季後は転校を考えていて、転校先はDⅡでもどこでも構わないと話をしていましたが、その気持ちに変わりはないですか?
志田 はい。母も「ラストの1年は、思いっきり楽しんでほしい。全力で応援するから」と言ってくれました。
――日本で見守っていらっしゃるご両親にとっても、志田選手が大好きなバスケットボールを十分にさせてもらえないという状況は辛かったと思います。
志田 親に「辛い」とか言えないので言わなかったのですが、絶対にわかっていたと思います。辛くなると電話とかかけたくなるじゃないですか。私はそんなにかけないタイプなのに、たくさんかけたりしたから、「あんたどうしたの?」って言われて。それで母が、「最後の1年は、バスケットを思いっきりできるところにしなさい。DⅠとか別にいいから。そこにいることだけでも凄いことなんだから。最後は楽しいところに行きなさい」と言ってくれました。そりゃDⅠでプレーできるのがいいですけど、ベンチに座っているのとDⅡでプレーしてるのと全然違いますからね。母が、そう背中を押してくれました。
――4年生のシーズンはヘッドコーチが変わりました。せっかく3年生のときにプレー機会が少なくても耐えて頑張っていたのに、また1からのやり直しになってしまいました。
志田 新しいコーチになるということは、チームがリセットになるので、良い方向に行くか、悪い方向に行くかどちらかです。だから何の偏見もなく、もう1年新しいコーチのところで頑張ろうと思いました。実は、トランスファー(転校)の話も去年の時点でありました。(短大)2年生のときのコーチとよく話していて、大学に編入した3年生のときに全然プレー機会がなかったので、「トランスファーする?」と言ってくれました。でも新しいコーチになったことで、「チャンスかもしれないから、もう1年やりたい」と言いました。やはりDⅠってすごく大きいことだから、そのチャンスにかけたかった。だから、「もう1回頑張ろう」と思いました。うまくいきませんでしたけどね。
――大学の2年間で一番学んだことは?
志田 自分がどんなに頑張っても、結果が出てほしいときに出ないものなんだな、と。でもそれは仕方ないことですし、うまくいっている時ほど成長できていないような気がします。うまくいってないということは、何かこれを乗り越えた先に絶対いいことが待っているし、結果が出てほしいところで出ないことに対し、ずっと落ち込んでいても意味がない、先のことを考えてやらなきゃいけないと思いました。うまくいっていないときをどれだけ大切にするかで今後が変わってくると思っているので。今も正直、この先どうなるんだろうとすごく不安ですけど、できることはハードワークすることです。
――チームメートはどんなふうに声をかけてくれていたのですか?
志田 ずっと“Your time is coming(あなたの番は来る)”です。みんな私がどれだけ練習していたか知っているので。ジムに誰よりも早く行って練習して、ずっとシューティングして、部屋に帰ったら泣いて、みたいな(苦笑)。そういった裏のこともチームメートは全部知っているので、なので「我慢しなさい。いつか来るから。認めてくれる人も出てくるから。今うまくいっていないことは仕方ないから、絶対にやめちゃだめ。諦めるのが一番だめだよ」って、ずっとみんな声をかけてくれました。チームのインスタとかで写真を撮っている人達も、いつもそばで支えてくれました。3年生のときにチームメートだった子も、今は離れてるのによく電話をくれて。夜中でもずっと話を聞いてくれました。
――チームメートの優しさ以外で、何が支えになりましたか?
志田 家族が、「何とでもなるよ。だめだったら次のことを考えよう」と言ってくれました。悠太さん(オフにロサンゼルスでトレーニングを受けているRISE Basketballの今田悠太スキルコーチ)もしょっちゅう気にかけてくれて、「もし大学が見つからなかったらどうしよう」とか、そういう話をしたときに、「人生、プランAとプランBがなかったらだめよ」って(笑)。軽く言われたんですけど、「そうだよな」って思いました。周りの人達のそういう言葉で「だめだったら次を探そう」という気持ちができたので、少し楽になりました。
――今後に向けて、どの部分をもっと鍛えたいと思っていますか?
志田 シュートです。悠太さんとシュートフォームも直しましたが、シュートの部分はこの1年で完璧にしないと駄目ですね。シュートです。間違いないです。