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近い将来、日本代表として世界の舞台で活躍する選手を育成・強化する目的でJWBF(日本車いすバスケットボール連盟)が設けた新カテゴリー「次世代強化」。初年度のメンバーに選ばれたのは、16歳~29歳までの22人だ。その全員を対象とした初めての強化合宿が、3月23~26日に日本財団パラアリーナで行われた。さらにトライアウトとして追加招集されたメンバーがいた。いずれも男子日本代表の京谷和幸ヘッドコーチ、藤井新悟アシスタントコーチの目に留まった選手たちだ。今回はそのうち、パラバドミントンから転向した19歳、現役大学生の望月悠生(2.5)と、健常のバスケットボール部出身である29歳の坂田拓哉(2.0)をピックアップした。
今年度「次世代強化指定選手」に選出された22人のうち、10代は6人。いずれも2025年男子U23世界選手権の対象年齢で、ディフェンディングチャンピオンとして連覇を狙う男子U23日本代表の候補だ。その仲間入りを果たそうと、今回の合宿にトライアウト組の一人として参加したのが、望月だ。
彼が本格的に車いすバスケットボール界に足を踏み入れたのは、昨秋のこと。10月に開催された天皇杯東日本二次予選会にあわせて、JWBFに選手登録したのがスタートだった。そのため今回の合宿に参加した選手のうち、競技歴は最も浅い。それでも、車いすの操作や走力の部分では、とても競技歴半年とは思えない動きを見せた。藤井コーチも「走力があるし、スピード、クイックネスも強みとなる」と期待を寄せた。
聞けば、望月は小学5年から中学2年までは車いすテニス、中学2年から高校3年まではパラバドミントンと、スポーツ経験が豊富。特にパラバドミントンでは21年、高校3年時にアジアユース競技大会で銅メダルを獲得した実績も持つ。
では、それまでの個人競技から一転、チーム競技である車いすバスケに転向した理由は何だったのだろうか。実は、幼少時代に(車いすバスケの)競技用車いすに乗った経験があり、当初から車いすバスケに憧れを抱いていたのだという。
そしてもう一つは、パラバドミントンでは“限界”を感じていたことも大きかった。
「僕は(右ひざ下欠損のほかに)脊髄にも障がいがあるのですが、クラスが2つしかないパラバドミントン(座位・車いす)ではぎりぎり体の状態がいい方のクラスに入るんです。でも、切断だけの選手と戦うのはやっぱり厳しくて……。精神的にも技術的にも、自分の障がいを考えると限界を感じていました」
同じクラスには、東京2020パラリンピックで金メダルに輝いた梶原大暉がいる。望月は「とても彼には敵わないな」と感じていたという。「それなら新しい世界でチャレンジしてみたい」。そんな気持ちが強くなっていところ、知人の誘いで現在所属する埼玉ライオンズの練習を見学に行くことになった。それがきっかけで、再び車いすバスケとの縁がつながったのだ。
「コート上を縦横無尽に走り回るバスケは爽快感があって、やっぱり楽しいなと思いました。クラス分けも細かく8つに分かれているので、僕の障がいでも対等に勝負することができる。それとこれまでは個人競技だったので、すべて自分一人で背負わなければいけなかったのですが、チーム競技は仲間と共有し合える。そういう点も魅力に感じました」
今年5月には20歳となる望月は、2年後の25年には22歳。ぎりぎりU23としての対象に入る年齢で、U23日本代表チームでは最年長となる。今回の合宿で、自分がそうした立場に置かれていることを知ったことで、望月にはこれまでにはなかった気持ちが芽生えている。
「所属チームでは最年少ですが、次世代強化指定選手には僕よりも年下の選手も結構います。それこそU23となれば、年齢では僕が一番上になる。だからそれまでにはどういう形にしろ、チームを引っ張るくらいの選手になりたいと思っています」
一方、今回の合宿で最年長だったのが、坂田だ。望月のほか、ほかのトライアウト生はいずれも10代というなか、29歳という年齢での招集に、坂田自身、驚きしかなかったという。
「正直“なんで、僕が?”と(笑)。他にもたくさんいい選手がいるのに、自分のどこを評価してもらえたのか全くわかりませんでした」
彼を招集したのは、京谷ヘッドコーチだった。昨年9月の天皇杯西日本二次予選会で見た坂田のプレーにポテンシャルの高さを感じたのだという。
「シュートタッチがやわらかく、スリーポイントシュートも打てる。またパスでゲームを組み立てて、全体的なバランスを取れる選手だったので、“おもしろい存在だな”と思ったんです」
クラス2.0といえば、長らく日本代表の中心として活躍した豊島英氏(現JWBF技術委員)がいた。東京2020パラリンピックではキャプテンを務め、銀メダル獲得に大きく貢献した存在だ。
その豊島氏が東京パラリンピックを最後に現役を引退。そのため現在、男子日本代表では誰が彼の穴を埋めるかが課題の一つでもある。その競争に仲間入りできる可能性を秘めた選手として、坂田の名が挙がったのだ。
実は、坂田は障がいを負う前、高校までは健常のバスケットボール部に所属していた。チーム事情によって、1、2、3番のポジションを器用にこなすユーティリティプレーヤーだったという。そのため坂田自身も謙遜しつつも「ボールハンドリングやパス、シュートに関しては、できる方かなと思っています」と語る。
さらに京谷ヘッドコーチは、彼の能力の高さについてこう評価している。
「バランスの取り方に関しては、豊島に似たところがある。それこそパスは、豊島よりもうまいですよ。クラスは違うけれど、ちょっと藤井(アシスタントコーチ)にも似たところがあるかな」
藤井コーチは、現役時代は04年アテネから12年ロンドンまで4大会連続でパラリンピックに出場。代えのきかない“司令塔”として、日本代表の柱だった。その藤井コーチに“似ている”と日本代表の指揮官に言わしめたのだ。それだけでも、センスの高さがうかがい知れる。
とはいえ、未知数の部分は少なくない。京谷ヘッドコーチも「ただ日本代表の速いトランジションバスケでどうかというのはまだわからない」と語る。すべてはこれからだ。
今回の合宿で「自分の認識の甘さを痛感した」という坂田は、こう正直な気持ちを明かす。
「自分が上にいくために乗り越えるべきハードルの高さ、階段の多さが鮮明になった分、どれだけやったらそこにたどり着けるのかわからなくなってしまいました」
初めて経験した代表争いのステージ。しかも、そこはまだほんの入り口に過ぎず、日本代表という頂に到達するためにはさらに過酷な世界が待ち受けている。それはこれまでぼんやりと想像していたものとは比較にならないほどの厳しさがあることを、坂田は知ってしまったのだ。そこにたどり着く自分を、今はまだイメージすることはできないというのが正直なところだろう。
しかし、せっかくもらえたチャンスを無駄にするつもりは毛頭ない。とにかく今は、考えられるすべてのことをやってみるつもりだ。
競技中心の生活を送るアスリート雇用の選手とは異なり、坂田はフルタイムで仕事をしている一般のサラリーマン。しかも日本代表が輩出されることが決して多くはない四国ブロックの選手ということからも、彼の挑戦はほかの選手たちの大きな刺激となるはずだ。決して簡単ではないが、近い将来“遅咲き”の花が咲くことを期待したい。