2018.08.13

初来日を果たすラッセル・ウェストブルックのキャリアをプレーバック! Part.1

NBA屈指のポイントガード、ウェストブルック[写真]=Getty Images
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 8月14日。オクラホマシティ・サンダーのフランチャイズプレーヤー、ラッセル・ウェストブルックが初来日を果たす。

 そこで今回は、ウェストブルックの人物像とNBAにおける功績の数々をお届けしていこう。まずは簡潔なプロフィールを紹介したい。

■プロフィール
本名:ラッセル・ウェストブルックJr.
生年月日:1988年11月12日(カリフォルニア州ロングビーチ)
年齢:29歳
身長/体重:190センチ/90.7キロ
所属:オクラホマシティ・サンダー
背番号:0
ポジション:ポイントガード
NBAキャリア:今季で11年目
高校:レウジンゲル高(カリフォルニア州)
大学:UCLA(在籍は2年)
ドラフト:2008年1巡目全体4位指名(シアトル・スーパーソニックス)
Twitter:@russwest44(フォロワー数は約590万人)
Instagram:@russwest44(フォロワー数は約1,090万人)

飽くなき向上心を持つ競争心旺盛な“練習の虫”

 ウェストブルックが生まれたのは1988年11月。カリフォルニア州ロサンゼルス中南部で育ったのだが、当時のNBAはロサンゼルス・レイカーズの絶頂期の一つ。アービン“マジック”ジョンソン(元レイカーズ/現バスケットボール運営部門代表)やカリーム・アブドゥル・ジャバー(元レイカーズほか)、ジェームズ・ウォージー(元レイカーズ)を筆頭とするスター軍団が、堅実なディフェンスから華麗なファストブレイクを繰り出す“ショウタイム”でリーグを席巻。レイカーズが87、88年に2連覇を達成した後だった。

マジック(左)を中心とした“ショウタイム”は世界中に強烈なインパクトを残した[写真]=Getty Images

 リーグトップレベルの実力と驚異的な人気を誇る地元チームが身近にあったことで、ウェストブルックがバスケットボールにのめり込んでいったのは自然な流れだったのかもしれない。ウェストブルックの父ラッセル・シニアはその地域のプレーグラウンドにおいては名の知れた実力の持ち主であり、バスケットボールに対する愛情は人一倍強かったという。

 そんな父の影響もあり、5、6歳の頃からウェストブルックはバスケットボールをプレーし始めた。弟レイナードと共に、500本ものシュートを練習して、腕が痛くなることもたびたびあったという。それほど、幼い頃からウェストブルックには飽くなき向上心があり、競争心も旺盛だった。当時のウェストブルックを象徴するようなエピソードがある。

 父ラッセル・シニアによると、ほとんどの人が休むようなサンクス・ギビングデイ(感謝祭)であろうと、ウェストブルックには休むという考えがなかったという。父はこう振り返る。

 「ラスはね、『父さん、今日はサンクス・ギビングデイだね。でも僕はシュート練習がしたいんだ。だからシュートしにジムへ行こうよ』って言うんだ。思わず妻やレイナードと顔を見合わせてしまったね。さらにこう言ったんだ。『さぁシュートしに行こう! 祝日だろうと平日のように練習しようよ』ってね。アイツの向上心は相当なものだったな」。

リーグ有数の選手へと成長した今でも、精力的なワークアウトをこなすウェストブルック[写真]=Getty Images

 もっとも、カリフォルニア州において、ウェストブルックは幼い頃から有名だったかというと、決してそうでもない。アウトサイドシュートに難があったこともあるが、何よりも当時は身長が低かった。レウジンゲル高入学時でさえ約173センチだったため、高校2年次まではスターターの座さえつかむことができていなかった。

突然の悲劇を機に、よりハードな練習を自らに課して右肩上がりで成長

 だがそこで、大きな転機が訪れる。それは幼なじみの友人との突然の別れだった。

 当時のチームメート、ケルシー・バーンズ三世が、練習中に拡張型心筋症となり、帰らぬ人となってしまったのである。普段は一緒にプレーしていたウェストブルックは、バーンズ三世との“最後の練習”に参加することができなかったことで、自分自身を強く責めた。そしてこう誓ったのである。

 「これまでの倍、努力してみせる。そして彼のためにプレーする」

 突然の悲劇を機に、ウェストブルックはメキメキと頭角を現していく。これまで以上にハードな練習を自らに課して有言実行、そして身長も190センチまで伸びたことで、しだいに知名度を上げていった。

 するとウェストブルックは高校3年次にスターターへ昇格。4年次には平均25得点以上をマークし、UCLA(カリフォルニア大ロサンゼルス校)から奨学金のオファーを受けるほどの有望株へと進化していったのである。

 しかし、UCLA1年目のウェストブルックは、先発の座をつかむことができなかった。当時のUCLAはダレン・コリソン(現インディアナ・ペイサーズ)が先発ポイントガードを務め、ウェストブルックはベンチスタート。平均出場時間はたったの9.0分で、平均わずか3.4得点。アグレッシブなディフェンダーという役割に甘んじていた。

 それでも、コリソンがNBAにアーリーエントリーしたこともあり、ウェストブルックは2年次には先発の座をつかみ取る。するとケビン・ラブ(現クリーブランド・キャバリアーズ)らと共に2008年のNCAAトーナメントでチームをファイナル4へと導いてみせた。

 といっても、当時はラブの方が評価は高く、ウェストブルックに対する評価のほとんどは“将来のトップディフェンダー候補”。2年次に平均12.7得点4.3アシストをマークし、UCLAが所属するパック10で最優秀ディフェンシブプレーヤー賞に輝いていたとはいえ、ウェストブルックが決して高い評価を得ていたわけではなかった。しかし、大学2年目を終えたウェストブルックは、NBAドラフトにアーリーエントリーすることを決断する。

ラブ(右)と共にファイナル4へ進出したウェストブルック(中央)[写真]=Getty Images

 そうして迎えた08年のドラフト。ウェストブルックは予想外とも言うべき高順位で名前が呼ばれることとなった。シアトル・スーパーソニックス(サンダーの前身)が1巡目全体4位でウェストブルックを指名したのである。

 NBA入り後、現地メディア『ESPN』へ、ウェストブルックはバーンズ三世に対する思いをこう語っていた。

 「ある意味、僕は彼(バーンズ3世)のためにプレーしているところがあるね。僕たちはいつも一緒だった。でもそれが突然、終わりを迎えてしまったんだ。だからそれ以来、僕は彼とその家族のことを常に考えているんだ」

 ウェストブルックはNBA入り後も、バーンズ三世のイニシャル「KB3」と刺しゅうされたリストバンドを付けてプレーしている。

 「毎日、コートに立ったらすべての力を出し尽くすようにしている。明日があると約束できることなんてないのだから」

 友人の死を受け、自らに課したハードな練習を実行するウェストブルック。今でもこの男は、常に高いモチベーションで試合に臨んでいるのだ。

<Part.2に続く>

ウェストブルックは友人の想いも背負い、自身が持つすべてを出し切って毎試合プレーする[写真]=Getty Images

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