2023.10.26
日本のバスケ界ではこの人の右に出る選手はいないだろう。ミニバスや中学・高校、アルバルク東京では10シーズンでキャプテンを経験。生粋のキャプテンキャラは行動や言葉で常にチームを引っ張り、チームメートを鼓舞してきた。
そんな彼のハイライトの一つには、2016年9月22日に行われた国立代々木競技場 第一体育館でのスピーチがあげられる。Bリーグの開幕戦、アルバルク東京対琉球ゴールデンキングスの試合後、記念すべき一戦を見ようと詰めかけた満員のファンの前で、テレビ、配信で観戦していた人々に向けて送られた、リーグのさらなる発展に向けた熱い思いを込め決意宣言だ。リーグを代表するキャプテン、正中岳城さんが発したメッセージは10年が経とうとしている今でも語り草になっている。
インタビューの前編では正中岳城少年がどのようにバスケに関わり、そして現在も奉職するトヨタ自動車へどのように入社していったのかをうかがっていく。
取材=入江美紀雄
撮影=須田康暉
――正中さんが生まれ育った地域はバスケが盛んで、そこで小学校5年生からミニバスケットボールチームに入り、本格的にバスケを始めたとうかがいました。その後、中学時代は全国大会出場を目指してチームメートと切磋琢磨してプレーされたものの、県内の地区予選で敗退し、高校進学の際はバスケ強豪校には入学しませんでした。
正中 高校は全国大会の常連ではなく、地元の県立明石高校に進みました。当時はプロもなく、バスケで食べていけるという感覚もなかったので勉強もしないと、と思っていたからです。中学時代に県選抜にも選ばれなかったこともあり、自分はエリートではないということもわかりましたし、もっとレベルの高い選手が強豪校に進むんだと感じていました。「頑張っても報われないことがある」。社会に出れば多くの人が経験する“壁”ですが、スポーツをしていると子どものころからその経験ができるとも言えますね。
ただ、進んだ学校では、インターハイやウインターカップ出場は難しい目標でもあったので、兵庫県の国体チームに入って全国大会に出場することを目標にしていました。国体は4年に一度、全都道府県チームが出られる仕組みになっていて、ちょうど僕らが3年の時がその順番で。運良く国体チームにも選ばれたことで、高校時代の目標の1つを達成できたのです。
秋に行われる国体に備えて、総体県予選で敗退後も進路のことは横に置きながら、部活動にも励んでいました。そんなとき、関西の大学から声を掛けていただいて願書を出したのですけど、書類審査で落ちてしまって。それならクラスメートと同様に地方の国立大学に進もうかと気持ちを切り替えたのです。
このような経緯もあって、部活は引退せずに続けており、高校生として最後の全国大会、ウインターカップ出場を目指して、兵庫県予選に向けて練習もしていたのです。そうしたらあれよあれよと勝ち上がってしまい、全国の切符を手に入れました。実は推薦で進もうと思っていた大学の2次面接が予選の準決勝の日だったのです。仮に書類審査を通っていたらウインターカップの本大会に出られなかったかもしれませんね。
正中
青山学院大への進学は兵庫県の強豪校の監督の紹介がきっかけです。その先生から僕のビデオを青山学院大の長谷川健志監督に送っていただき、その後、面接と小論文の試験を受けて、なんとか入学できることになりました。ひょんなことからいろいろな扉が開いて、その掛け合わせの偶然というか、導かれるように青山学院大に決まりました。――青山学院大と言えば全日本大学バスケットボール選手権大会(インカレ)で優勝するなど、全国的にも強豪チームの一つです。地元から東京に出ていくなど、いろいろな環境の変化に慣れることも大変ではありませんでしたか。
正中 やっぱり大変でした。初めて練習に参加して、想像はしていましたが、レベルが違うなと感じました。体つきも違います。でも、「やれないレベルではないな」「一つずつ課題をクリアしていけば」とも感じて。身の程知らずではなかったと思うのですが、ある意味プレッシャーもなかったので、少しずつ馴染んでいけたと思います。
正中
はい。学校によってはスポーツ推薦の学生を支援してくれるところもありますが、青学はもう塩(笑)。普通の学生と変わりません。それでも練習環境は抜群に良かったと思います。ちょうど相模原キャンパスができたころで、設備は素晴らしかったですね。ただ、だからって単位がそれで取れるわけではないですし。夜は遅くまで練習、トレーニングメニューもハード。その中で一般の学生と同じように授業を受けていました。親元を初めて離れて、しかも東京で一人暮らしをする。多感な年頃ですから誘惑も多かったのですが、手を抜くことなくやり抜いたことは良い経験でした。――正中さんの同期は、双子の兄の竹内公輔選手(宇都宮ブレックス)、弟の譲次選手(大阪エヴェッサ)を筆頭に、現在でも現役を続ける太田敦也選手(三遠ネオフェニックス)、菊地祥平選手(アルバルク東京)、岡田優介(香川ファイブアローズ)といった日本バスケ界を牽引した選手が多く排出したことで、「黄金世代」と呼ばれていました。ご自身はどのように感じていましたか?
正中 確かに彼らと同じ1984年生まれですが、そこに名前を連ねている感覚はありません。どちらかと言えば後から乗っかったみたいな感じだと思います(笑)。
――黄金世代の選手は東海大学に集まっていましたが、青山学院大も負けてはいませんでした。
正中 自分たちの代は勝てなかったのですが、1つ上と下の代は関東リーグに優勝できました。黄金世代の一員というよりは、大学のチームで対抗していたし、そこで揉まれたことはその後のバスケ人生だけでなく、社会に出たときにも役立ったと思います。特に1学年上の先輩たちが当時のトップであるJBL(日本バスケットボールリーグ)のチームに入ったことも刺激になりました。
正中
トヨタ自動車という企業の中で、バスケの他、野球やラグビー、長距離陸上や女子ソフトボールなど、多くの強化運動部があり、アスリート社員が職場に配属されて活躍しています。会社を代表して競技で戦う社員選手を従業員が応援することで、職場の一体感を醸成し、あきらめずに戦う「ネバーギブアップ」の精神やチームワークを意識するなど、スポーツは本業に共通する要素を多用に含んだ、重要な役割を果たすものであると認識されていました。だからこそ、僕は正社員として入社し、チームに所属することで役割を果たしたいと思って、正社員選手を選びました。一緒に入団した岡田(優介)は大学時代から公認会計士になろうと準備を始めていました。明確なキャリア設計の話も聞いていたので、自分としてコミットするものを見つけたいと思ってもいました。もちろんバスケという競技は頑張るのですが、岡田とは違うアプローチで、企業人の一人として競技に向き合い、企業スポーツに関わる人間となって企業に貢献することを軸にしたいと決めたのです。
――やはり競技から引退した際のセカンドキャリアも頭に入っていましたか?
正中 引退後のことまでは考えていませんでした。それでも、会社のキャリアのうちの一部をバスケットボールに向き合う時間に、引退後はその部署に配属されたら、そこで自分が何をするべきかを作るという感覚は持っていました。
(後編に続く)
※後編は11月26日更新予定
【正中岳城プロフィール】
トヨタアルバルク東京株式会社 アルバルク事業部副部長
小学校5年生から本格的にバスケットボールを始め、県立明石高校から青山学院大学に進み、トヨタ自動車アルバルク(現アルバルク東京)に入団。社員選手、アマチュア選手として2020年の引退までキャリアを全うした。現役引退後はトヨタ自動車に復職。渉外広報本部に配属され、企業情報のリリース発信や広報対応などの業務を担当。さらに24年9月よりアルバルク東京に再度出向し、アルバルク事業部副部長として、クラブ運営全般を勉強中。
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