2022.11.24

【トッププレーヤーの高校時代】津山尚大(後編)「高校でPGの基礎を固めることができた」

島根スサノオマジックの津山尚大に学生時代の話を聞いた[写真]=B.LEAGUE
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 BリーグやWリーグの選手たちに、高校時代のことを振り返ってもらうインタビュー企画「トッププレーヤーの高校時代」。今回は福岡県・福岡大学附属大濠高校出身の津山尚大だ。

 全国でも名だたる強豪へ進んだ津山は、高校3年間でどのような成長曲線を描いたのか。後編をお届けする。

インタビュー・文=岡本亮
写真=B.LEAGUE

――津山選手は1年生ながらベンチ入りし、インターハイへ出場しました。
津山 ベンチ入りこそしましたが、インターハイの1週間前に自主練習中に足首をひねって、靭帯が切れてしまったんです。初めての大ケガだったので焦りましたが、片峯(聡太)先生が「使えるところは使っていくから」と言ってくださって、ベスト16まではプレータイムを制限して出場しました。

 ベスト16の正智深谷高校戦では先発しましたが、相手は渡邊雄太さんがいた尽誠学園高校に勝ったので勢いがありましたし、僕自身足首の調子が良くなかったので、出来は良くなかったですね。

――ケガをした時は落ち込みましたか?
津山 落ち込みましたね…。ケガをした瞬間に先生に報告しなければいけなかったのですが、その時はインターハイ直前ということもありビビって言えなかったんです(笑)。でもケガをした次の日、自主練中に片峯先生から「1対1しようぜ」と言われ、その時にバレて「今すぐ病院に行け!」となりました。結局インターハイ終了後手術することになったので、相当なケガだったんですよね。

――手術後はどのように過ごしていたのですか?
津山 とにかく早く戻りたいと思っていたので、できる範囲で筋トレとドリブル練習をして、あとはNBAをよく見て勉強していました。

――1年次のウインターカップではケガも癒え、全試合スタメンで出場。ベスト16で尽誠学園に74-79で敗れました。
津山 渡邊さんは怪物でしたね。上から目線の言い方になってしまいますが、ポテンシャルがとにかくすごいな、と。マッチアップしなくて良かった〜と思っていました(笑)。

――その大会では1年生ながらスコアラーとして活躍していました。
津山 高校へ入学する前にバスケの雑誌を読んだのですが、その際に青木(保憲/広島ドラゴンフライズ)さんの存在を知って。その時青木さんとコンボガードを組むことになったら、僕がシューターとして点を取りにいったほうがいいと思っていたんです。その意識でずっと準備をしていたので、それが結びついたという感じですね。

――青木選手とはどんな関係性だったのですか?
津山 練習中からよく声をかけてもらいましたし、相手のエースには青木さんがマークして守ってくれたので、僕の負担を減らしてくれていました。一緒にやっていてとても楽しかったです。

――2年次のインターハイでは準決勝へ進出するも、角野亮伍選手(シーホース三河)擁する藤枝明誠高校に91-94で敗れました。
津山 僕の一つ上の代に杉浦(佑成/滋賀レイクス)さんや青木さんがいたこともあり、その大会では優勝候補に挙げられていたのですが、角野選手を止められず40点ほど取られてしまいました。3位決定戦がなかったこともあって、負けた悔しさをどこにぶつけたらいいんだろうと思うくらい悔しかったです。

――その年のウインターカップでは決勝まで進むも、八村塁選手が所属する明成高校(現仙台大学附属明成高校)に78-92で敗れ、惜しくも優勝を逃しました。
津山 正直に言うと、八村があそこまでやれるとは思っていませんでした。八村よりも白戸(大聖/ライジングゼファー福岡)さんを注意したほうがいいと思っていたのですが、八村がすごくて全く止められませんでした。圧倒的な負けだったので、本当に悔しかったです。

――さまざまな経験を積んで高校生活最後の1年を迎えましたが、心境の変化はありましたか?
津山 その1年はプロ入りに向けて準備を進めないといけなかったですし、片峯先生からも「気持ちの準備をしないといけないから、覚悟しておけよ」と言われていました。なので、先生からの指導は厳しかったですね。

――最後のインターハイでは明成高校に74-53で勝利し、高校生活初の優勝を果たしました。
津山 すごく安心しましたね。というのも、3年生になった時に琉球ゴールデンキングスで当時社長を務めていた木村(達郎)さんに会って、「高卒でプロになることはそんなに簡単なことじゃないし、甘くない。だから、最低でも日本一にならないといけない」と言われていたんです。なので、「絶対優勝してやる」、「ここで優勝しないとプロに行けない」という思いでやっていました。

――ご自身にプレッシャーをかけながら試合へ出場していたのですね。
津山 そうですね。なので、優勝が決まった時は安心して泣いてしまいました(笑)。

――高校最後の大会、ウインターカップの決勝ではインターハイと同じ顔合わせに。69-71で明成高校に敗れ、準優勝という結果に終わりました。
津山 その試合では相手のゾーンディフェンスに苦しみました。マンツーマンディフェンスにはアタックできるのですが、ゾーンされた時はどうしても人の動きやボールが止まってしまって。ゾーン対策は結構練習したのですが、結局崩し切れませんでした。

――大会を通じてご自身の調子はどうでしたか?
津山 全然良くなかったですね。ベスト8まではコンスタントに得点できていたのですが、準決勝の市立船橋高校戦で初めて1ケタ得点に終わってしまい、そこで調子が狂いました。決勝では力が入り過ぎて、空回りしてしまいました。

――決勝戦が終わった瞬間、どんな心境になりましたか?
津山 寂しい気持ちが大きかったですね。田中(國明)先生を胴上げできませんでしたし、「もうこのメンバーでできないんだ」と思うと寂しかったです。

――高校3年間で最も印象に残っている試合は?
津山 高校2年の九州大会ですね。2回戦で佐賀東高校と対戦して負けたのですが、初めて無得点で終わったんです。その時「何のために大濠に来たんだろう」と思いましたし、「もうバスケやりたくない」とも思いました。

 試合が終わって帰った後も半ば自暴自棄になっていたのですが、その時に片峯先生といろいろ話をさせてもらい、「バスケットボールを置いて、2〜3日空けてもいい。でも、お前の場合はバスケットでしか返せないから、落ち込むならとことん落ち込んで帰ってこい」という言葉をかけていただいて。それがすごく印象的で、今でもはっきりと覚えていますし、どんな状況でも続けることが向上する秘訣だと思わされました。

――高校3年間で最も伸びたと思う部分は?
津山 スキルの部分ですね。中学まではオールラウンダーでしたが、高校2年生から本格的にポイントガードへコンバートしたんです。その際片峯先生からガードとしてのスキルを教えてもらい、ポイントガードとしての基礎を高校で固めることができました。

――では、最後にご自身の経験を踏まえて中高生へアドバイスをお願いします。
津山 今の中高生はスキルがあってレベルが高いですし、僕自身見ていて楽しいです。オフェンスはスキル豊富で自由にできる子が多い印象ですが、だからこそ勝つためにディフェンスを重要視すべきですね。僕はプロに入ってからディフェンスの重要性を痛感しているので、その年代からしっかりディフェンスをやったほうがいいと思います。

 あとは、いろいろな選手を見ることですね。今はNBAやBリーグが身近なので、試合をたくさん見て多くの選手から学ぶことが成長につながると思います。

高校で結果を残した津山は、卒業後念願だったプロ入りを果たした[写真]=B.LEAGUE

PROFILE
津山尚大(つやま・しょうた)島根スサノオマジック
福岡県の強豪・福岡大学附属大濠高校出身。1年次から主力として活躍し、2年次のウインターカップで準優勝。3年次はインターハイと国体の2冠を達成したが、ウインターカップでは準優勝という結果に終わった。高校卒業後は当時bjリーグの琉球ゴールデンキングスへ入団し、ライジングゼファー福岡カナダリーグ、アルバルク東京三遠ネオフェニックスを経て2022年に島根スサノオマジックへ加入。入団1年目ながら指揮官の信頼を勝ち取り、キャリア最多となる1試合平均33分43秒12.5得点をマークしている。

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