2023.06.09
トッププレーヤーに高校時代のことを振り返ってもらうインタビュー企画。今回は福岡第一高校(福岡県)で河村勇輝ともにインターハイ優勝、ウインターカップ2連覇を果たした小川麻斗が登場。将来を嘱望されるポイントガードに話を聞いた。(インタビューは千葉ジェッツとのプロ契約発表前となる11月23日に実施)
取材日=11月23日
インタビュー=峯嵜俊太郎
写真=兼子愼一郎
――その入ったチームというのが、福岡県の強豪である百道シューティングスターズですね。
小川 はい、バスケットをやるなら強いチームに入って、いい指導者の方に教わりたいという思いがあったので。
――小学2年生の頃から、目的意識がはっきりしていたんですね。
小川 そうですね(笑)。兄の試合を見ていた影響で、当時から「うまくなりたい」という思いは自然と持っていて。そこから、プロバスケットボール選手になりたいという夢も芽生えていたからだと思います。
――中学生の時は、こちらも県内屈指の強豪である西福岡中学校でプレーされています。
小川 鶴我隆博先生の指導を受けたくて西福岡に行きました。鶴我先生はそれ以前に兄のいる姪浜中学校で指導されていて、試合も見に行ったことがありました。すごく厳しい先生なんですけれど、「鶴我先生に教えてもらったらうまくなりそうだな」と感じて、小5の時から親に鶴我先生に教わりたいとずっと言っていましたね。
――当時の小川選手はどんなプレーヤーでしたか?
小川 中2の頃からスタートで出させてもらってましたけど、何かできるかといえばそんなことはなくて(笑)。空いたら打つとか、時々ドライブ行くとか、そのくらいでしたね。ただ、3年生の時に鶴我先生に「しっかりとエースにならないといけない」と怒られたんです。それがきっかけとなって、自分で得点を取りに行くようになりました。
――そんな中学時代は全国中学校バスケットボール大会で3位、ジュニアオールスターで2位と確かな実績を残し、高校は福岡第一高校を選びました。福岡第一を選んだ理由は?
小川 西福岡中は福岡第一と練習試合をする機会が結構あって、全中にも井手口(孝)先生が来ていて、僕と(河村)勇輝が対戦した試合も見ていたんです。それで声を掛けてもらったのがきっかけです。
――悩みませんでしたか?
小川 少し悩みましたね。実は兄が福岡第一出身なんですけど、当時はほとんど試合に出られなかったんです。それで「自分も出られないんじゃないか」という不安があったので。けれど、結局は自分がどれだけ努力するか次第だと思って。当時のインターハイ優勝校でもありましたし、最後は気持ちも吹っ切れて福岡第一に行くことを決めました。
――同級生には河村選手もいましたが、当時ライバル意識などはありましたか?
小川 ライバルというよりは「一緒にプレーしたら面白そうだな」という思いが強かったです。小5の頃からよく試合をしていたのでアシストのうまさは知っていましたし、自分がどちらかというと得点を取りに行くスタイルだったので、「いいコンビになれるのかな」と楽しみにしていました。
――入学後、小川選手はインターハイ全国大会でメンバー入りを果たしていますが、高校生になって初めての全国という舞台に対し、緊張はありましたか?
小川 緊張はあまりしていませんでしたが、たとえシード校でも初戦で敗退することが普通にあると知っていたので、どこが来てもちょっと怖いな、という思いはありました。あとは、1年生の時には明成高校と対戦したんですけど、そういうテレビで見ていたチームと対戦するとなると、ちょっと弱気になってしまって。個人的に名前に負けている部分がありました。
――実際、当時は準決勝で八村阿蓮選手擁する明成に敗れ、大会を終えることとなりました。
小川 あの試合は明成のゾーンが想像以上だった、という印象です。アレクサンダーさん(相原アレクサンダー学)もいたんですけど、思っていたよりずっと大きいし、手も長いし、これまで経験したことがないレベルでした。大会を通して見ても、個人的にもあまり良かったとは言えないんですけど、非常にいい経験はさせてもらったと思います。
――その後、ウインターカップでも1年生ながらメンバー入りしています。
小川 個人的にはインターハイの時と比べて出場時間が短くなって、結構落ち込んだ大会です。まだまだ井手口先生の信頼を勝ち取れていなかったんだと思います。
――チームとしては準決勝で福岡大学附属大濠高校に敗れ、3位決定戦では帝京長岡高校に敗れてベスト4という結果でした。
小川 個人的にはあまり出場できなかった大会でしたが、あの大会で出られなかったからこそ、2年や3年で個人としてもチームとしても結果を残せたと思うので、ああいう経験をできて良かったと思っています。
――2年生で迎えたインターハイは、初めて主力として迎えた全国大会でもあったと思いますが、どのような大会でしたか?
小川 その大会は裕樹さんと勇輝がU18日本代表活動でいなくて、チームとしても初戦で負けてしまったんです。準備不足というか、「勝てるだろう」というマインドで緩く試合に臨んでしまった。そのスキを突かれている間に相手もノッてきて、あっけなく負けてしまって。初戦の難しさというのをすごく感じた試合でした。
――小川選手としては、その敗戦をどのように捉えていましたか?
小川 まずは、裕樹さんと勇輝がいなかったことを言い訳にはしたくないという思いがありました。そのためにも、一人ひとりがもっと成長しないといけないと当時チームで話し合いましたね。それで、個人的にはシュート力を上げないといけない思い、結構早くから遅くまでずっとシューティングしていました。
――それはやはり2人がいなくても、自分が得点を取れる存在にならなければいけない、というような意識だったのでしょうか?
小川 そうですね。やっぱり当時の福岡第一は、裕樹さんと勇輝を抑えればいいと考えるチームが多かったと思うので、その2人だけじゃないんだというのを証明したかったんです。自分が点を取って、チームに勢いをつけられるようにしていければなと考えていました。
――その後迎えた2年生のウインターカップには、どのような心境で望んだのでしょうか?
小川 あの大会は「勝ちたい」という思いを持ちながらも、全国大会を「楽しみたい」という思いも強かったです。それは、チームの雰囲気がすごく良かったからなのかなと。
――チームの雰囲気が良かった要因は?
小川 ベンチメンバーの3年生が必死にスカウティングをしたり、ベンチで声を掛けたりしてくれていたからだと思います。出られていないメンバーも含めて、チームがすごくまとまっていた印象が強いです。やっぱり試合に出ている5人だけが頑張るんじゃなくて、ベンチメンバーも全員が団結すれば日本一になれるんだと、実感した大会でした。
――実際、この大会の福岡第一はすべての試合に大差で勝利し、優勝を果たしました。初の全国制覇を達成した当時の心境を覚えていますか?
小川 もちろんうれしかったんですけど、個人的には「あと1年あるのか…」という思いもありました。「あと1年このきつい練習をしないといけないのか」って(笑)。
――当時の大会は各校のタレントが非常に豪華でしたが、特に印象に残っている選手はいますか?
小川 やっぱり富永啓生さんですね。桜丘高校とは準決勝で対戦して、古橋正義さんが富永さんのディフェンスについていたんですけど、正義さんのファールがかさんだら自分が代わりにディフェンスすることになっていたんです。正直言って富永さんのディフェンスには付きたくなかったので、「正義さん、お願いだからファールしないで!」と思って試合していました(笑)。
――しかし、願いは届かず。
小川 はい。結局マッチアップすることになったんですけど、手を上げてチェックしてもシュートが入るし、プレッシャーを掛けたらファールになるしで、本当に駆け引きが上手な選手で。もう、自分のメンタルがやられちゃいましたね…。中学の時に対戦したことがあって、その時も自分がディフェンスについてやられていたんですけど。でも数年経ってもっとやばくなってました(笑)。
――実際に就任してからはどんなことを意識しましたか?
小川 キャプテンとしてチームをまとめるのは当たり前として、雑用とかを下級生に全部任せたりはしないようにしていました。自分も掃除とか結構やっていた方だったかなと。あとは朝早く、絶対練習に一番に来るというのは1年間続けました。陰ながら頑張るというか、そういう模範的な姿勢は意識していたと思います。
――そんななか迎えたインターハイ。前年の初戦敗退もあって、並々ならぬ思いで大会に臨んだかと思います。
小川 初戦の難しさは分かっていたので、初戦から全力で戦いたい、戦わないといけないなって思いでやっていました。ただ、ウインターカップ優勝校として負けられないとか、そういう気負いやプレッシャーはなかったです。
――そんな不安も抱えるなか、大会終了後に小川選手と河村選手はアメリカに武者修行に行っていますが、どのようなことを学びましたか?
小川 アメリカに2週間くらい滞在して、向こうのスキルコーチに習ったり、ピックアップゲームに参加したりしました。ピックアップゲームってあまり日本ではないので、すごく新鮮でしたね。出ている選手はみんなバチバチというか、負けたくないという気持ちが全面に出ていて、そこはやっぱり日本とは違うなと感じましたね。あとはトレーニング施設とか、シューティングマシーンとか、環境の部分もすごかったです。
――東山高校戦は前半終了時点で28ー38で負けていて、後半一気に巻き返し、最終的には福岡第一が71ー59で勝利した試合ですね。
小川 はい。前半は相手のシュートが当たっていて、逆にこちらのシュートは全然入らず。プレスディフェンスも対策されていて、かなり苦戦しました。
――そのなかで勝ち切れた要因は?
小川 井手口先生がタイムアウトをとってチームに喝を入れてくれたんです。それでみんなのスイッチが入って、ディフェンスももうみんな体力がなくなるくらい必死にやって。相手もだんだん最初の勢いがなくなって焦るなか、自分たちは逆に乗っていって、その流れのまま逆転できた試合でした。
――そして、決勝では同じ福岡県の強豪である福岡大大濠と対戦し、75ー68で勝利して大会2連覇を達成しました。夏の時点で怖さや不安も抱えていたなか、連覇を果たせた要因は?
小川 とにかくやるべきことをやったことで、自分達が崩れなかった。スタートの5人だけではなく、控えで出てくる選手も崩れることなく、井手口先生を信じてプレーしていたというのは一つの要因かなと思います。
――ちなみに高校3年間を通して特に印象に残っていたり、意識していた選手を教えてもらってもいいですか?
小川 勇輝と東海大諏訪の黒川虎徹、あとは大濠の中田嵩基さんと東山の米須玲音。この4人は意識していました。黒川虎徹とは小学生の時から何度も試合してきた相手で、高校でも2年生のウインターカップで対戦した相手です。虎徹とやる時は本当に燃えましたね。米須も虎徹と一緒のチームだったので、小学生の頃から対戦していて楽しい相手でした。中田嵩基さんは中学の先輩で、「先輩だけど負けたくない」という存在でしたね。
――海外に挑戦したいというのは、やはり3年生の夏にアメリカに行ったことがきっかけでしょうか?
小川 そうです。あの夏のアメリカでの経験がきっかけで、「海外に行きたい」と思うようになって。スラムダンク奨学金にも応募したりしました。
――海外、というのは具体的なイメージがあるんですか?
小川 ドイツやカナダでやってみたいなと。日本もBリーグが盛り上がっていて、すごい選手もたくさんいるので学べることは多いと思うんですけど、個人的には若いうちにいろいろな国に行って、いろいろな環境でやりたい。いろいろな人と出会って、自分をもっと成長させたいという思いが強いです。バスケットだけではなくて、慣れない海外の生活やコミュニケーションの部分も含めて、自分一人でどれだけやっていけるか挑戦したいです。
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