2020.12.02

【トッププレーヤーの高校時代】笹山貴哉「チャンスがあるなら頑張ろうと思い、洛南へ進学した」(前編)

名古屋Dの笹山に学生時代の話を聞いた[写真]=B.LEAGUE
ライター・カメラマン

BリーグやWリーグの選手たちに、高校時代のことを振り返ってもらうインタビュー企画、
第12回は京都府の洛南高校出身の笹山貴哉だ。
父の影響でバスケットを始めた笹山選手がどのように成長し、
京都の名門・洛南高校へ進学することになったのか。前編・後編にわたってお届けする。

インタビュー・文=山田智子
写真=B.LEAGUE

アーチを意識した練習が今にも生きている

笹山はミニバスのコーチをしている父の影響でバスケを始めた[写真]=B.LEAGUE


――まずはバスケットを始めたきっかけを聞かせてください。
笹山
 完全に父親の影響ですね。父がミニバスのコーチをしていて、幼稚園の頃からずっと体育館に一緒にくっついて行っていました。入部したのは小学校1年生の頃なんですけど、チームの人数も少なかったので、その前からちょこちょこと試合に出ていたと聞いています。僕自身はあまり記憶にはないんですけど……。

――初めて出た試合の記憶はありますか?
笹山
 初めて出た試合は覚えていないんですけど、初めて決めたシュートは覚えています。小学校1年生の時、ノーマークのレイアップだったと思います。その前に何度か落としていて、何回目かでようやく決めた記憶があります。

――小学校時代は全国大会の出場経験はありましたか?
笹山
 6年生の時に初めて全ミニ(全国ミニバスケットボール大会)に出場しました。僕は三重県出身で、田舎育ちだったので、なかなか都会に行く機会がなくて。全国大会に出て、代々木第二体育館でバスケットをすることを一つの目標にしていました。だからそこに初めて立ったときは感慨深いというか、すごくうれしかったですね。

――小学校のチームでの役割は?
笹山
 キャプテンをやらせてもらっていました。ミニバスあるあるですけど、ポジションは1番から3番くらいまでという感じですね。

――コーチがお父さんという部分での難しさはありませんでしたか?
笹山
 最初はすごく難しかったです。小学校3年生ぐらいまでは監督から父親に変わる境目がすごく難しくて。練習で怒られたりすると、一緒に帰る車の中がすごく嫌でした。ですが、4年生の頃、父から「そこの境目は、終わったらしっかりとつけよう」という話をされて、気が楽になったというか、それからは怒られた時でも車の中で話すことができるようになりました。

――当時憧れていた選手はいましたか?
笹山
 アレン・アイバーソン(元フィラデルフィア・セブンティシクサーズほか)をよく見ていました。真似しようとして、できないみたいな感じでしたね。

――中学は地元の白子中学校に進みました。どんなチームでしたか?
笹山
 ミニバスのみんなでそのまま上がった感じです。1年生は外を走っているだけみたいなチームだったのですが、1年生大会で活躍して認められて試合に出るようになってからは、少し体育館に入れるようになったんですけど、ほとんど外を走っていた印象があります。

――中学でも全国大会を経験しましたね。
笹山
 県の強化指定選手に、1年生は2人だけ入れるんですけど、それに選ばれて。2年生の時にはジュニアオールスターに出場しました。

 山形で行われた全中にも出場しましたが、予選で負けました。優勝した山形のチームの高橋貴大が異次元でしたね。身長もデカくて、身体も出来上がってて、一人だけプロみたいでした。山形のチームとは今でも仲が良いです。あとは田渡凌(現広島ドラゴンフライズ)。めちゃめちゃ速くて、その中でもスキルがあって、すごく印象的でした。上には上がいるというレベルじゃなく、僕はよくこんなんで出たなと思いました(笑)。

――中学生の頃のプレースタイルは?
笹山
 中学の時はスリーを打つ選手でした。シュートに関してはミニバスの頃から結構打っていましたね。家の庭にリングがあったのですが、父がアーチを意識するように、という意図でミニバスよりリングを少し高めに設定していました。今でもそれがずっと生きていて、アーチを上げることを意識して打てるようになっていると思います。

――中学卒業後は洛南高校に進学しました。地元の三重を離れて、名門・洛南を進学先に選んだ理由を教えてください。
笹山
 当時の顧問の先生が洛南出身の方で、中学の時に洛南へ練習試合に行く機会がよくありました。先生からも「絶対にタメになるぞ」と勧められて、最初は「僕がそんな……」と思っていたんですけど、チャンスがあるならがんばって挑戦してみようと進学を決めました。

――笹山選手が入学した当時は、3年生に比江島慎選手(現宇都宮ブレックス)がいて、ウインターカップで2連覇中でした。入学後はすぐに高校のレベルについていけましたか?
笹山
 AチームとBチームに別れていたのですが、僕は最初Bチームで、結構上がったり下がったりしていました。Aチームに定着したのは2年生の途中からですね。今一緒にやっているガードの小林(遥太)さんがスタートで出て、つなぎで少し出るという感じでしたね。勝つのが当たり前のチームですし、勝たないといけないという緊張感がすごくありました。一つのミスでAチームとBチームを左右されるので、練習でも気を抜けなかったです。

――洛南は「パス&ラン」のスタイルが徹底されていますが、そのスタイルには馴染めましたか?
笹山
 パスをして走る、そのシンプルな中に難しさがあるというか。走るコースだとか、どこまで走るかなど、頭を使わないといけない部分がたくさんあって、初めはすごく考えてプレーしていました。

――洛南の名物練習はありますか?
笹山
 一番の名物練習は、世界遺産の東寺の周りを走ることですね。東寺の周りを2~3周走って、そこから中に入ってまた少し走るんですけど、結構距離があって。僕は長距離が苦手だったので、嫌でしたね。キャプテンがその日の練習メニューを先生に聞きにいくんですけど、「東寺」って言われると、「東寺かぁ~」って感じで。みんな結構真面目に走るので、ついていくのがやっとでした。

洛南高校へ入学した当初は「すごく考えてプレーしていた」と振り返る[写真]=B.LEAGUE

PROFILE
笹山貴哉(ささやま・たかや)名古屋ダイヤモンドドルフィンズ
京都府の名門・洛南高校出身。高校1年時のウインターカップでベンチ入りを果たし、優勝を経験。高校3年時にはU-18日本代表に選ばれ、2010年のFIBAアジアU-18選手権に出場した。高校卒業後は筑波大学に進み、4年次に同校61年ぶりとなる全日本大学選手権(インカレ)制覇にキャプテンとして大きく貢献。その後アーリーエントリー制度で当時NBLの三菱電機名古屋ダイヤモンドドルフィンズ名古屋(現名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)へ入団した。攻撃的なポイントガードで、左手から繰り出す鋭いパスや高精度の外角シュートが特長。

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