2020.06.24
父の「視野を広く持て」というアドバイスをきっかけに東京大学進学を目指した。1年間の浪人生活を経てたどり着いた先に待っていたのは、予想以上にレベルの高いバスケだった。しかし、そこにたどり着いたからこそ、見える風景も変わっていく。何よりコーチを目指すことを決めたのも大学だ。
さらに大学での4年間があったからこそ、アメリカ留学への道が広がっていった。バスケの本場で見聞きしたものは、アルバルク東京でアシスタントコーチ/スキルコーチを務める森高大のかけがえのない経験となった。
取材・文=入江美紀雄
――ミニや中学校時代の成績はどうでしたか?
森 ミニでは四国大会に出ています。中学校もくじ運が良くて四国大会のベスト4まで行きました。後1つ勝てば全中(全国中学校大会)というところまでは勝ち上がったのですが、正直全中に行けるようなレベルのチームではなかったと思います。
――県立高松高校という県下でも有数の進学校に進みます。そこでも部活でバスケをやろうというのは自然な流れでしたか?
森 はい。やろうと思って進学しました。ただ苦労したのが勉強との両立です。進学校だったので長々と練習できるわけではなく、遅くても18時半には帰されてしまいます。それから塾だったり家庭学習に時間を割いてました。
――受験勉強に取り組むようになったのは?
森 本格的な受験勉強はインターハイ予選が終わった後ですね。もう少し早く始められれば良かったですけど、そんな余裕は無かったですね。
――バスケで最後まで燃え尽きようと。
森 実は高校総体が香川県は6月の上旬に開催されますが、4月に入ってからはバスケに比重を持っていき過ぎてかなり成績が落ちてしまいました。それでも総体で燃え尽きようという思いで頑張ってましたね。香川県は県下に40チームくらいしかないので最初から県大会なんですけど、ベスト8で負けて引退。四国大会に出られるのはベスト4以上だったのでまた一歩届かずという形でした。
――大学でバスケを続けようというのは何か理由があったのですか?
森 いくつか理由があります。まず父親が筑波大学の柔道部出身で、以前から「本当の勝負は大学だからな」と時折言ってくれていました。自分としても香川県の中だけだと視野が狭くなりがちなので、東京の大学に進学してバスケを続けようという感覚をぼんやりと持っていたのはあります。それで関東の大学の事情を調べてみたのですけど、早稲田(大学)や慶應(義塾大学)、明治(大学)は僕にはレベルが高すぎる。偏差値の高い学校は軒並みバスケも強すぎるので、僕がプレーヤーとして入る余地がないと思ったんです。そこで当時の関東リーグの国立校では筑波(大学)の次が東京大学だったんです。「関東リーグの2部と3部を行ったり来たりでけっこう強いんだ」と思って。高校時代は受験勉強とバスケの狭間で苦しんだので大学で思い切りバスケをして、現役生活を終えられたら良いなと思って、東大に進むことを決めました。
――お父さんのように「大学でも続けたほうが良い」という意識を持っている人は少ないと思います。
森 そうですね。多くのチームメートは高校で引退してしまいましたが、結果的に大学4年間バスケに捧げられて良かったなと思います。そこはみなさんに知っていただきたいですね。
――とはいえ、そんなに簡単に東大には受かりません。
森 高校3年の時はインターハイ予選との両立の部分でどうしても時間が限られてしまい、正直体力的にもキツかったですね。終わった後は部活動生特有の遅れもあり、もっと早くから勉強をしていた人たちや浪人生とスタートラインが全然違う状態でありながら、時間も一気に流れていったので追いつくのかも難しいところでした。実際現役の時は落ちてしまったんですけど。
――浪人生活はどうでした?
森 僕らの高校は補習科というのがありまして高校4年生ができるんです。学校の中に予備校があるみたいな形でそこの補習科で1年間過ごしました。逆に同じような友達も残っていたのであまり高校のときと変わらず。より受験に特化した、ちょっと特殊な1年間でした。
――自分が高校まで覚えてきたものが通用しなかったのですか?
森 自分としては、中途半端に四国大会に出場するなどまあまあな成績だったので、正直もっとできるだろうと天狗になっていた部分もありました。入学した当初も浪人したせいで(体力が)まだ戻ってきてないからだろうと思い込もうとしていましたね。プライドが無駄に高かったんでしょう。そこのアジャストが一番難しかったと今は思います。
――プレーヤーとして頑張ってきたのに、4年生になるとコーチに転向されます。何かあったのですか?
森 僕らの代でチームスタッフが誰もいないというチーム状況もありました。また、自分としてもコーチになりたかったので、チームを支えながら学生コーチもできたら良いなと思い転向しました。
――プレーヤーとしては完全燃焼したわけですね。
森 半々ですかね。3年生までに自分がチームの中心だったら、コーチになる選択をしなかったかもしれませんが、そのレベルには達せられなかったので。試合に出してもらえるかどうかくらいの選手だったこともあり、そこでチームのためにどっちがいいかなと天秤にかけた時にコーチになった方が足りない部分を補えるので。加えて大学レベルでコーチをしたことが将来自分のためにもなると思ったこともあり、コーチになる選択をしました。
――コーチを実際1年間やってみてどうでしたか?
森 学びになることは今思えば多かったのですけど、すごく苦しかったことを覚えています。当時は学生コーチと主務も兼任していました。そもそもスタッフとしての素地が無いのに2つも掛け持ちしたわけです。でも仕事は待ってはくれないので、早くアジャストできるように必死にやってたら1年過ぎた感じですね。
――実際に渡米してからはいかがでしたか?
森 最初の3カ月から半年くらいは死んでましたね。ある程度準備をしていたつもりだったのですが、学校の教授が話す教科書的な英語は聞き取れても、バスケ部のマネージャーや選手が話すくだけた英語でバーッと話されると何を言っているのかわかりませんでした。そもそもうまく聞き取れないうえに、何もコミュニケーションが取れないので苦労しました。毎日必死でしたね。ただ、コミュニケーションが取れるようになると、他の部分も順繰りに回りだした感じでした。
――バスケの本場はいかがでしたか?
森 戦術の深みもそうですし、周りで働いてるスタッフの仕事の細やかさ、こんなところまで準備するんだ、こんなところまでビデオをブレイクダウンするんだ、どういう風に見せるのかなど、裏方の仕事などもまるでプロのチームのような仕事ぶりで刺激的でした。それまで日本の部活動しか見てなかったので、衝撃的でしたね。
――日本では経験できない環境ですね。
森 たくさんのアシスタントコーチがヘッドコーチを支えるためにどのように仕事をするのか、それを周りのスタッフがどう支えていくのかなどを目の当たりにできました。日本ではあの規模のものを生で見る機会はないと思うので、そういった部分は勉強になりました。今思い返すと、こういうことのほうが手に入らない情報だと思います。
――その素晴らしい環境で何を学ばれましたか?
森 戦術やコーチング論はもちろんですが、今の仕事に生きていることは、レベルの高いコーチがどうやってコミュニケーションを取るかですね。それに今は基本的にアルバルクのベンチからの指示は英語なので、バスケの現場でどのような英語が使われてるのかを学べたことも役立っています。コート上で飛び交う、もしくはコーチとプレーヤーが使う生の英語を学べたのは大きかったですね。もちろん大学院でのコーチングという学術的な授業も素晴らしかったです。日本に帰ってきて同じような情報量を自分で学ぶのは大変なので、素晴らしい環境で学べたと思います。
――新型コロナウイルスとの戦いの中で高校3年生は進路を考えなければいけない状況です。これまでの経験からアドバイスをお願いします。
森 今の高校3年生は最後の大会に向けて全力を注入してきたのに、それがバッとなくなったわけで、その喪失感は計り知れません。ただ、このような表現が正しいのか分かりませんが、高校生が思っているよりも世界は広く、自分の知らない世界がもっとあります。バスケをここで終わるのではなく、そこを超えた先にもっと新しい世界が広がっています。ぜひそこで立ち止まらないで、今出来る事を全力で小さいことからスタートしてください。その1つ1つ積み重ねた努力が、いつかあなたを自分も想像していなかったところまで連れていってくれるかもしれません。この騒動が終わった時に新しい目標に全速力で進んでいけるように、今は心のエネルギーを溜め直す時期だと思うので、ぜひ下を向かないで前に進んでいってほしいと思います。
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