2020.06.08

【#バスケを止めるな2020】阿部友和(富山グラウジーズ)が自作のプレー映像で切り開いた大学への道

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高校時代は無名だった。県内では福岡大学附属大濠高校、福岡第一高校に次ぐ強豪校、九州産業大学付属九州高校でキャプテンを務めていたが、関東の大学までその名声が届くことはなかった。

もっと高いレベルでプレーしたかった。だから、自らアクションを起こした。そのアプローチが実って大東文化大学への切符をつかんだ。それから15年、阿部友和は念願のプロ選手になり、いくつかのチームを渡り歩き、バスケ界で確かな地位を築いた。

中学生の時に病気で精神的にも肉体的にもダメージを負い、大学では圧倒的なレベルの違いに挫折を経験した。それでも情熱が尽きることはなかった。ベテランポイントガードを突き動かす原動力は何だったのか。半生を振り返ってもらった。

#バスケを止めるな2020
『バスケットボールキング』では、学生自らが投稿したプレー動画集などをTwitter、Instagram、Tiktok等のSNSに「#バスケを止めるな2020」をつけた動画の投稿があれば、これら動画の拡散に協力することで、スポーツ推薦を引き寄せるための支援を行う『#バスケを止めるな2020』プロジェクトを実施しています。詳しくはこちら
https://basketballking.jp/news/japan/20200514/229918.html

取材・文=安田勇斗

竹野明倫という憧れでありライバルの存在があったからこそ

――出身高校の九州産業大学付属九州高校のバスケットボール部は福岡県の名門の一つですが、在学時はどの程度の結果を残せたのでしょうか?
阿部
 3年のインターハイ予選ではベスト4まで勝ち上がりました。もともと実力が抜きん出ていた大濠(福岡大学附属大濠高校)に次ぐぐらいの力があったんですけど、ちょうど3年の時にセネガル人留学生が加入した第一(福岡第一高校)も力をつけてきて、自分たちは全国大会に行けませんでした。

――チームの中での立場は?
阿部
 キャプテンをやらせてもらっていたのですが、僕ともう1人うまい選手がいて、試合では2人が中心になって戦っていました。

――その時の自分の実力をどう評価していましたか? もし全国大会に出ていたとしたら?
阿部
 全国大会に出ればある程度の活躍はできたかもしれないですね。本当に“ある程度”ですけど。トップレベルの選手ではなかったと思います。

九産大付属九州高校では3年次にキャプテンを務め、インターハイ県予選でベスト4に進出(写真は本人提供)

――大学バスケの強豪校に自身のプレー集を編集して送ったそうですが、どういう経緯から始めたのでしょうか?
阿部
 付属高校だったので、行き先がなければ九産大に行く流れになっていたと思います。九州の中ではバスケが強かったですし、大学の先生も声をかけてくれていたので。でも僕自身、近くに竹野(明倫/現大阪エヴェッサアシスタントコーチ)というトッププレーヤーがいながら、小中高と全国の舞台を経験したことがなくて、やっぱり高いレベルでプレーしたい、そういう世界に飛びこんでみたいという想いがありました。それで6つの大学に自分のビデオを送りました。

――学業に専念したり、就職したり、いろいろな選択肢があった中で強豪校でバスケを続ける意思を示したのは、どういった理由からだったんでしょうか?
阿部
 少し昔の話をさせていただくと、僕は中学1年生の時に病気になりました。甲状腺機能亢進症……バセドウ病ですね。そのせいで思春期にこういう見た目になって、大好きなバスケットもしばらくできませんでした。そうしたストレスから、1年ぐらい学校に行かなかったんです。通学路で近くの高校の横を通るんですけど、高校生に見られるのが嫌だったし、中学校ではちょっとした陰口もたたかれたりして。その時に助けてくれたのが両親で、特に母親にはすごく感謝しています。それとバスケ部の友達が「もう一回バスケしよう」って誘ってくれたのが大きかったです。それが中1の終わりぐらいで、まだバスケをやったらダメだったんですよ。でもどうしてもバスケがやりたくて、母親が病院の先生に「バスケットをさせたいんです、この子にバスケットをさせるにはどうしたらいいですか?」とかけ合ってくれて。そのおかげで中学、高校とバスケを続けることができました。僕はとにかくバスケットが好きで大学でも続けたい気持ちがあり、それと過去の経験もあって、母親をはじめ応援してくれる人がいる以上は、もっと上を目指したいと思っていました。その気持ちは今も変わりません。

――バセドウ病はどういう症状だったのでしょうか?
阿部
 息苦しさなどがあって、おかしいなと思っていて、熱が高かった時に母親に病院に連れていってもらって発覚しました。見つけるのがちょっと遅くて、医療が発達して今はそれほど難しい病気ではないみたいですけど、当時はすぐに手術という感じではなく、薬で治療していました。動悸がすごくて、汗が止まらないし、疲れやすいし、運動が全然できなかったので本当にキツかったです。2年ぐらい前に手術して、今は薬を飲んで調整していますけど、それこそ千葉ジェッツにいた頃も病気で調子が悪い時がありました。

2015年から18年まで3シーズン在籍した千葉ジェッツでは天皇杯2連覇に貢献 [写真]=B.LEAGUE

――話を戻しますが、そこまで思い入れがあるバスケットはどういうきっかけで始めたんでしょうか?
阿部
 始めたのは小学校3年生の終わりぐらいなんですけど、それまで習字とか英会話とかを習っていたんです。でもまあ続かなくて(笑)。習字は1人で黙々と書いて、英会話はマンツーマンで話して、楽しくないなと。そんな時にたまたま友達にバスケをやろうと誘われて、母親は自分が飽き性なのを知っていましたから「いいよ、でもどうせすぐ辞めるんでしょ」という感じでしたけど(笑)、すぐにのめりこみました。友達と一緒に、笑顔でやれるのが楽しかったんですよね。ただ今思えば何でも良かったんだと思います。サッカーも好きですし、チームスポーツだったら、みんなで楽しめるスポーツだったら何でも良かったのかなと。

――先ほど竹野さんの名前が挙がりましたが、小学生の頃から知っていたそうですね。
阿部
 違う小学校でしたけど、知っていました。その当時、全国一のチームにいて、中学生の時に自分と同じ地区に引っ越してきて、よく対戦していました。

――当時からすごい選手だったんですか?
阿部
 小学生の時は試合をしたことがなくて、プレーを見ただけでしたけど、僕の方がうまいと勘違いしていました(笑)。チームは弱いけど、個人で見たら僕の方がうまいと。でも中学生になって対戦した時に度肝を抜かれたというか、すげえなと。もう1人すごい選手がいたんですけど、地区大会の決勝でいつも戦って負けていて、とにかく勝ちたくて必死でした。

――竹野さんは福岡大大濠高校に進学しました。
阿部
 僕はライバル心むき出しでしたけど、竹野はどうだったのかわからないですね。たぶん僕のことなんて気にしてなかったと思います(笑)。

――6校にビデオを送って、最終的に大東文化大学に入学することになりました。他の大学から返事などはあったのでしょうか?
阿部
 返事をくれたところもありましたけど、インターハイに出ていないからダメ、全国ベスト8以上じゃないとダメ、という感じでしたね。

――大東文化大学からはどういうリアクションがあったのでしょうか?
阿部
 いきなり「取ってもいい」という返事でした。その時はアメリカ人のコーチだったんですよ。インターハイなど日本の大会をそこまで知らなかったでしょうし、もちろん自分のことを知っているわけもなく、映像だけで判断してくれたんだと思います。「推薦の枠があるから来てみなさい」と。もうめちゃめちゃうれしかったです。正直入れるとは思っていなかったので。家族もすごく喜んでくれました。

――時期はいつ頃だったんでしょうか?
阿部
 たぶん1月ぐらいですね。それでダメだったら九産大に行っていたと思います。

――今でこそスマホで簡単に動画を編集できますが、当時は大変だったと思います。
阿部
 めちゃめちゃ大変でした(笑)。両親に手伝ってもらいながら、ビデオとDVDプレーヤーをテレビにつないで、DVDに落としこんで。確か自分のプレーをビデオで流してDVDプレーヤーで録画して、というのを繰り返して編集していたと思います。全部で12分ぐらい、オフェンス8分、ディフェンス4分ぐらいにまとめました。

――そもそも高校生がプレー集を送ること自体、珍しかったのでは。
阿部
 全国大会に出られなかったので、大学の関係者は僕のことを知らなかったと思うんですよ。知ってもらうにはこういう方法しかないかなと。近くで竹野を見ていましたから、こういう選手とプレーしたいと、どうにかして飛びこみたいと思って。

「バスケットがうまくなりたいという一心で続けています」

――その竹野さんとは大東文化大学でチームメートになります。
阿部
 中学生の時、いつも30点差、40点差をつけられてボロ負けした印象があったんです。でもあとあと竹野に聞いたら、僕たちと対戦した時は毎回、コーチに怒られていたみたいで。その当時、僕はディフェンスに自信があって竹野から何度かスティールした記憶があるんですけど、それで竹野はいつも試合に勝ちながら怒られていたと。ただ大学でも竹野は1年生の時から活躍していて、自分は全然試合に出られなかったので、また大きな差をつけられましたね。

竹野はライジング福岡(現ライジングゼファー福岡)や秋田ノーザンハピネッツなどを経て、2017年に西宮ストークスで引退 [写真]=B.LEAGUE


――念願叶って入った大学ではどんなものを得られましたか?
阿部
 大学時代は挫折しかないですね(笑)。入って2、3年は本当に挫折の繰り返しで。その時ドリブルやレイアップは得意だったんですけどシュートが苦手だったんですよ。「うそでしょ」って思われるぐらい下手でした。台形(ペイントエリア/現在は長方形)からのシュートが入らなくて(笑)。先輩にもめちゃめちゃ怒られました。それでシュートフォームを何度も変えたんです。高校までずっと変えなかったんですけど、たぶんこの頃から変化することが苦にならなくなりましたね。うまくなるためには変化が必要だと感じるようになったんです。ベテランになってくると変化が怖くなると思いますけど、自分は何でもすぐに取り組めるタイプで、それは大学での大きな挫折があったからだと思います。

――大学はやっぱりレベルが違った?
阿部
 そうですね。一番衝撃だったのは、竹野の自主練でした。高校までは違う学校だったので何をしているかわからなかったんですけど、竹野は1年生からバリバリ試合に出ながら、めっちゃ自主練していたんですよ。自分も一生懸命練習していたつもりでしたけど、全然足りなかったなと。自分の感覚だけではダメだと感じましたし、大学でいろいろなチーム、選手を知って世界が広がりました。

――学生時代を振り返って、大きな影響を受けた恩師やチームメートはいますか?
阿部
 いろいろな方々にお世話になりましたけど、1人を挙げるとしたら中学校の顧問の先生です。『ROOKIES』の川藤(幸一)先生みたいな方で、柔道2段でオールバックで見た目も似ていて。バスケのことは全く知らなかったんですけど、すごく勉強熱心でいろいろな情報を元に練習メニューを組んでくれました。僕が1年間学校に行っていなかった時も、「戻ってこい」と必死に声をかけてくれて。その先生がいつも言っていたのが「一生懸命やろう」という言葉でした。「一生懸命やって、結果がいいか悪いかはその後にわかる。とにかく一生懸命やること、あきらめないことが大事だ」とずっと言っていて。バスケットを一生懸命やること、あきらめないことはその先生から教わったことで、一番心に残っている言葉ですね。

――阿部選手はストイックなイメージがありますが、ここまでお話を聞いてその源がわかった気がします。
阿部
 自分がストイックだと思ったことはないですけど、バスケットがうまくなりたいという一心で続けています。僕はプロで12年やっていますけど、バスケへの向上心や情熱が100パーセントじゃなくなったらやめると決めています。学生時代からその気持ちで、自分の中でいろいろな目標を立てながらそこに向かってやっています。

――今年のインターハイが中止になり、中には進路に迷っている選手もいると思います。自身の経験からアドバイスを送るとしたら、どんなことを伝えたいですか?
阿部
 僕はインターハイに出られなかったですけど、そこを目指してがんばることは青春の1ページだと思うので中止になってすごく残念です。僕もいろいろな青春の1ページが抜けていますけど、それでもプロでプレーできているのは自分の進みたい道を決めて、選択肢や方法を見つけたからです。インターハイに出られるような選手は、明らかに当時の僕より上のレベルの選手です。そういう選手であれば、自分なりのアピールなどアクションを起こせば、行きたい大学に行けたり、何かしら道は開けると思います。Bリーグができて、高卒の選手が増えてきたり、海外に行く選手がいたり、いろいろな道ができました。大学に行くことが全員にとってのゴールではないですし、仮に大学に行けなくても、プロを目指すのであればどんな環境でもチャンスはあるはずです。自分が変わればその環境も変わりますし、目指す先に向かって挑戦していけば、いい進路、いい道、いい人生が開けると思うのでがんばってください。

阿部だからこそ語れるメッセージを高校部活生に送ってもらった [写真]=B.LEAGUE

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