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『B MY HERO!』
最後はポイントガードらしく、冷静なアシストを選んだ。
「先生からは最後は『お前がやれ』と言われていたので、自分からどんどん強気に攻めていきました」。
後半、福岡第一の轟琉維(3年)はゲームメークよりも自ら得点を取りに行く姿勢を見せ、次々とスコアを伸ばした。しかし、試合終了残り1分を切ってからは2本連続でジャンプシュートを外し、開志国際高校(新潟県)との点差は残り30秒の時点で「4」。
「最後、轟のシュートが落ち始めたので『ここまでかな』とも思いました」。井手口孝コーチにも敗戦の2文字が脳裏をよぎったという。
だが、コート上の選手たちは諦めなかった。必死にボールを追って相手のミスを誘い、残り15秒で74-76。同点、もしくは逆転を狙ったラストチャンスでボールを持ったのは轟だった。
思えば、昨年のウインターカップでも同じようなシチュエーションがあった。決勝進出をかけた準決勝、轟は2点を追いかける最後の攻撃で自らのシュートを選択したが、決めきることができずに敗れている。
昨冬の借りを返す絶好のチャンス。しかも轟にとっては最初で最後のインターハイだ。しかしこの場面、ここまで28得点を挙げていた福岡第一の8番はエースとしてではなく、チームのポイントガードとして仲間を信じた。
託したのは崎濱秀斗(2年)。崎濱は直前までU16とU17の代表活動でチームへの合流が遅れ、「どこか遠慮していてアジャストできていない」(井手口コーチ)と決して良い状態ではなかった。それでも轟は後輩を信じ、その崎濱が値千金の3ポイントシュートを射抜いた。
「あれは轟の判断ですね。轟に任せて負けたら、それはウチとしてはOKです。多分、本人も無意識というか、感覚だったと思います」
井手口コーチが最後の攻撃についてそう話す。一方の轟は、追い詰められた状況でも周りが見えていたと明かし、こう口にした。
「最初は自分で行こうと思ったんですけど、ディフェンスが思った以上に寄ってきましたし、最後は崎濱が決めてくれると思ったのでパスを出しました」
77-76。死闘が終わった。福岡第一は「令和4年度全国高等学校総合体育大会バスケットボール競技大会」の頂点に立った。
「初戦はダメダメで雰囲気の悪いまま始まってしまいました」と轟が振り返ったように、優勝までの道のりは本当に苦しいものだった。
桐光学園高校(神奈川県)との初陣では先発の5人が最後まで力を出しきれず、快勝を収めた洛南高校(京都府)との準々決勝で勢いを取り戻したかと思えば、準決勝では再び苦戦。この試合では生命線であるディフェンスがほころび、決勝戦を前にして失点は「78」を数えた。
それでも、福岡第一は分厚い選手層、応援席や福岡で見守った総勢104名の部員からなるチーム力でインターハイを制した。
中学時代からチームメートの城戸賢心(3年)とともに、その先頭に立ってきた轟。大会途中で左足を痛めながらも、すぐにテーピングを巻いてコートに戻るなど、ゲームキャプテンとして背中を見せ続けた。そこには「自分がやらなければ」という強い意志があったからだ。
「琉維はチームの中心でエース。やっぱり流石だなと思いました」。開催地となった地元・香川県を離れて福岡第一の門をたたき、セカンドユニットとして轟を支えたガードの中村千颯(3年)は、改めて轟の頼もしさを感じた。
あと一歩のところで優勝を逃した開志国際の富樫英樹コーチも、敵ながら最大限の賛辞を送る。「あれが“チームを勝たせる”ということですよね」。
轟は高校ラストイヤーで2度の日本一獲得を目論む。苦しんだ末に1つ目の栄冠を手にし、「最後まで全員が諦めない気持ちを持っていました。キツい練習をみんなで乗り越えてきた結果がこの優勝だと思うのですごくうれしいです」と安堵した。そしてこの夏、日本一のポイントガードになった背番号8は人生で初めて宙に舞った。
文=小沼克年