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今年の1月、「第2回全国U15バスケットボール選手権大会」(ジュニアウインターカップ)で2連覇を達成した四日市メリノール学院中学校。昨年夏にも全国中学校大会(全中)を制し、昨年度は夏冬の“2冠”を達成した。
チームの指揮を執るのは稲垣愛コーチ。前任の朝明中学校時代には全中で2位など輝かしい成績を残し、平野実月(トヨタ自動車アンテロープス)、粟津雪乃(東京羽田ヴィッキーズ)のWリーガーをはじめ、高校や大学でも活躍する選手を多く輩出している。
そんな稲垣コーチのインタビュー。前編ではバスケットの経歴や指導者になったいきさつなどを聞いた。
取材・文=田島早苗
――まずはご自身バスケット歴を教えてください。
稲垣 小学校5年生からはじめました。それまではバレーボールの少年団に入っていたのですが、転校した先にバレーボールチームがなく、友達からバスケットの誘いを受けたのがキッカケです。その後、(地元・三重県の)桜中学校、四日市西高校と進み、バスケットを続けました。
――学生時代の成績は?
稲垣 高校は、私が3年生のときに三重県で2位になり、東海大会に出場。今でも覚えていますが、1回戦で桜花学園(当時は名古屋短期大学付属高校)と対戦して30対130ぐらいで負けました。名短は、岡里明美さん(元女子日本代表/シャンソン化粧品シャンソンVマジック)たちがいてすごく強かった。でも、私たちから30点近く取られたことで、当時、(桜花学園の)井上眞一先生の機嫌が悪かったんですよ。その試合で私は18点取ったので、今は直接井上先生にその話をしています(笑)
高校で国体メンバーに選んでもらったことで、大学でもバスケットを続けたいなと思い、愛知大学(愛知県)に進みました。大学では4年生のときに初めてインカレに出場しました。
――東海学生リーグでも活躍したと聞いています。
稲垣 3年と4年生のときにアシスト王になりました。
――大学卒業後は指導者の道へ?
稲垣 いや、10年間、企業で働いていました。国体の成年女子のメンバーに選ばれていたので、大学卒業後もプレーを続けたいという思いが強く、会社で働きながらクラブチームで選手としてプレーしていました。
選手を引退し、国体チームのスタッフになった頃、中学校の恩師の山川正治先生が教頭で赴任した朝明中学校(三重県)のバスケット部が、それまでの顧問の先生が異動になられたことから私が呼ばれて。それから1年間は会社員として働きながら、外部コーチという立場で中学生の指導にあたりました。
――指導者になったキッカケは突然だったんですね。
稲垣 突然、降って湧いた感じですね。
――2年目も会社で働きながら指導を続けるのですか?
稲垣 1年目は全中に行くことができず、県3位で終えました。それで中途半端なことをしていたら勝てないなと思い、辞めちゃったんですよね、祝日も仕事だった会社を(笑)。それと、恩師からの「あなたにとっては毎年来る夏だけれど、中学3年生にとっては、一生に一度の夏なんだ」という言葉も大きかったですね。
――思い切った決断でしたね。
稲垣 そうですね。旦那になんて言うと思って(笑)
――会社辞めたあとはコーチ業のみ?
稲垣 はい。学校の部活動が終わってからの練習だったので、夜ご飯を用意してから家を出て練習に行き、21時近くまで練習して家に戻るという生活でした。ただ、翌年には朝明高校の講師の話をいただき、3カ月ほど非常勤講師をした後、常勤に。高校の国語教師をしながら中学生を教えるようになりました。
――朝明中を約10年間指導した後、四日市メリノール学院中学校に指導の場を移します。
稲垣 ありがたいことに歴代の校長先生をはじめ、朝明中学校には本当によくしていただきました。それは、バスケット部の選手たちが学校の中でもいろんなことに一生懸命取り組んでくれたからだと思います。
ただ、状況や環境が変わる中で、いつまで外部コーチとしてできるかは分からない。いろんな人に相談しながら、四日市メリノール学院からのお誘いを受けることにしました。
――いきなり指導者の道を歩むわけですが、指導法などはどのように学んだのですか?
稲垣 駆け出しの頃は、当時、愛知県の若水中学校だった杉浦裕司先生(現・東海学園大学監督)や長良中学校を指導されていた大野裕子先生(現・ポラリスヘッドコーチ/クラブチーム)のところによく行かせてもらいました。恩師の山川先生のアドバイスで、全中での成績や指導法に定評がある先生たちから学ばせてもらいましたね。その一つが桜花学園高校(愛知県)。井上先生からすれば、私のことは全然知らないはずなのに、受けてくださいました。井上先生はそういった申し出は絶対に断らない方ですよね。
――名将たちに教わりながらキャリアを積んでいったのですね。
稲垣 本当にかわいがってもらい、大事にしてもらっています。杉浦先生、大野先生、そして桐山博文先生(八王子第一中学校/東京都)、山崎修先生(四日市メリノール学院中・男子部コーチ)と、同じ中学の指導者の方々や、バスケットでいえば木村功先生(愛知学泉大学監督)からの教えも大きいです。それこそ娘ぐらいの年齢の私を本当に温かく迎えてくれて指導してくれる。すごく大きな存在です。もちろん、恩師の山川先生は、私の中学時代は厳しい方でしたが、バスケットを好きにさせてくれた人で、とても感謝しています。
――朝明中時代の横断幕に記されていた『できるできる絶対できる』という文字も先輩指導者の影響だとか。
稲垣 (勤めていた)朝明高校のラグビー部の先生がくれた言葉です。人って諦める方が楽だから諦めちゃうことって多いと思うんですね。でも、子どもたちは諦めなくていい。大人になっていく過程で、ここまでやったけどダメだったということが分かればいいだけの話だと思うんです。そういった意味を込めてある言葉です。
――朝明中を見始めた頃から目標は全中出場ですか?
稲垣 そうですね。最初の年、当時の3年生たちがキラキラした目で「全中に行きたいです」と言うわけですよ。それで私も脇目も振らずにやったのですが、県の3位で終わりました。その後、悔しいけれど東海大会を見に行ったら、選手たちが全中も見に行きたいと。それで休みとうまく合わせて、私の車に乗せられるだけ選手を乗せて(全中開催地の)山形までいきました。
――三重から山形ですか!?
稲垣 はい。電車だとお金がかかるので。帰りは埼玉あたりでくじけそうになりましたけど(笑)。そのときの全中では八王子一中が優勝。決勝を見ながら『ああ、これが全中なんだ』『こういったパスや、こういったドリブルじゃないと全中に出られないんだ』とすごく感じましたね。
――会社員から教師への転向ですが、会社員時代の経験は生きていますか?
稲垣 教師も大変ですが、社会人もすごく大変。保護者の方が、日頃仕事で忙しいこともよく分かります。会社に勤めていたら、なかなか休みを取れないですから。だから選手たちにも親への感謝や大変な思いをしながらサポートしてくれているんだということは伝えます。
私自身、一般企業に勤めたことで、色んな方向から物事を見ることができているのかなとは感じます。教師って、『こうあるべきだ』と理想の生徒像を追い求めてしまいがちで、それは選手に対しても同じ。「何でできないの?」と思ってしまう。でも、それって「自分が教えてない」ということでもあるんです。まずは自分自身が教えてないことを恥ずべきだし、選手はそんなに簡単にはできません。小さい子どもだって三輪車から自転車を乗れるまでになるのも大変ですから。