2020.05.03

【今だから振り返る日本バスケ史②】 世界に飛び出し、“時代”を作った田臥勇太と一途な仲間たち

日本人初のNBA選手となった田臥。当時、サンズの入団会見が日本で行われた[写真]=Getty Images
スポーツライター。『月刊バスケットボール』『HOOP』編集部を経て、2002年よりフリーランスの記者に。国内だけでなく、取材フィールドは海外もカバー。日本代表・Bリーグ・Wリーグ・大学生・高校生・中学生などジャンルを問わずバスケットボールの現場を駆け回る。

 一時代を築いた世代を振り返りながらバスケット界の歴史を紐解く企画。第2回は、今も多くの人材が第一線で活躍している1980年生まれの『田臥世代』だ。

文=小永吉陽子

39歳となった今もBリーグで活躍を見せる田臥[写真]=B.LEAGUE

田臥勇太と能代工フィーバーに沸いた1996~1998年

 時は90年代終盤。一人の少年がバスケ界にフィーバーを巻き起こした。その主人公の名は今さら言うまでもない、1996~1998年に能代工業高校(秋田県)を前人未到の高校9冠(3年連続インターハイ・国体・ウインターカップ優勝)に導いた田臥勇太だ。

 インターネットがそれほど普及していない時代に、バスケを知らない人でさえも田臥勇太の名を知っていたのだから、バスケ界でのフィーバーぶりは社会現象になっていた。個性が主張していたのが佐古&折茂世代ならば、この頃は田臥の存在そのものが時代を作っていた。もっとも、当の本人は「うまくなりたい」一心でプレーしていたに過ぎない。田臥世代はそんなひたむきで一途な姿勢で取り組む選手が多かったことも特徴だ。

 神奈川県の大道中学校時代から類まれなるセンスが注目されていた田臥は、能代工に入学するとすぐに頭角を現した。どこからともなくキラーパスを飛ばし、プレスディフェンスからの速攻で一瞬にして得点を奪う。そのイマジネーション豊かな高速トランジションゲームは、バスケファンはもとより、バスケを知らない人が見ても『楽しい』と釘付けにしてしまうほどの支配力があった。

 能代工の戦い方も注目された。加藤三彦コーチ(西武文理大コーチ)のもと、フロアリーダーの田臥、シューターの菊地勇樹、リバウンダーの若月徹の3本柱が『走る、シュート、プレス、リバウンド』というシンプルな役割をとことん追求。その徹底こそが勝利の法則であり、どんな試合でも、どんな相手に対しても、その法則を貫いたからこそ能代工は強かったのだ。

 能代工が試合をすればどこの会場も満員札止めになり、1万人収容する東京体育館でのウインターカップでは立ち見の人垣ができ、それでもあふれてフロアに座って観戦する人もいたほど。高校9冠の不敗神話を築いた主人公たちはテレビや雑誌に多く取り上げられ、全国各地に『〇〇(地域やチーム名)の田臥』と呼ばれるバスケキッズが出現。まさしく、田臥勇太は日本バスケ界に旋風を巻き起こした時代の寵児だった。

世界の舞台から学んだ田臥勇太と仲間たち

田臥とともに健在のプレーを見せる五十嵐は、2006年には地元開催の世界バスケで躍動した[写真]=B.LEAGUE

 この世代は1999年に世界ジュニア選手権(現U19)、2001年にヤングメン世界選手権(現在は廃止のU21)に出場し、アンダーカテゴリーから世界舞台を経験したはじめての代である。

 どちらの大会も指揮を執ったのは、当時、仙台高校を指導していた佐藤久夫コーチ(明成高校)。この世代は長身選手が不在のため、サイズのなさを克服するためにクイックに打つ3ポイントシュートと機動力で勝負した。

 2つの世界大会で田臥とガードコンビを組み、自他ともに認めるライバルと称されたのが仙台高の司令塔、柏倉秀徳(筑波大学女子監督)だ。柏倉は173㎝と小柄ながらも、ゲームコントロール力と信念の強さで日本代表までのぼり詰めた。話は逸れるが、この時代の仙台と能代工の戦いは東北のライバルとして常に熱戦で、高校バスケの黄金カードだった。田臥が公式戦で唯一敗れたのは、1年次の東北大会準決勝の仙台戦だけである。

 また、この年代は早くから世界舞台を経験したように、海外でプレーすることにも目が向いた世代である。

 能代工を卒業した田臥はブリガムヤング大ハワイ校に進学。ヤングメンの一員だった小林高の北郷謙二郎(三遠ネオフェニックス社長)はカルフォルニア州立大ロサンゼルス校でプレーした。またこの世代といえば、ヤングメンのエースで日本代表候補にもなった佐藤健介の存在抜きに語ることはできない。

 佐藤は190㎝のサイズで対応力に優れたクレバーな選手。ポイントガードができる素質を見出され、2006年の世界選手権に向けてポイントガードへのコンバートが期待されていた。慶應義塾大学を卒業するとNBA挑戦のためにアメリカへと渡ったが、帰国後はバスケから退き、別の道へと転身している。

 20代前半での早すぎる引退は衝撃的だったが、バスケ以外のことにも広い視野を持ち、プレー同様、考え抜く賢い性格ゆえの選択だったのかもしれない。当時の取材ノートを読み返すと、アメリカと日本の環境の違いに衝撃を受けたことを話している。

「日本とアメリカでは差があり過ぎて、自分もちっぽけすぎて。比較や分析ができないほどショックを受けました。今のままでは日本のバスケは世界で戦えないし、危機感が足りません」と海を渡ったからこそ知り得た本音をぶつけている。

 当時は日本を飛び出すのも難しく、ましてや、日本の環境に危機感を抱く若者はそういなかった時代である。そしてこうも言った。「でも、僕らがそういうことを学んで気づく世代になればいいと思うんです」

 その願いは親友の田臥に託された。田臥はブリガムヤング大ハワイ校を3年で辞め、帰国後はトヨタ自動車に入団。新人王を受賞するも、翌シーズンには再びアメリカの地に飛んだ。二度目のアメリカ挑戦は何が違ったのか。

「ハワイの大学に進学した時とはモチベーションが違います。あの時は日本を飛び出すことだけで精一杯で、消極的だったけれど、今はアメリカに行って揉まれたい気持ちが強い。だから日本を飛び出すことから始めないといけない。アメリカはそういう気持ちで競争したいやつが集まるところだから」と自分の意志で突き進む“覚悟”からして違った。それから1年後、2004年にフェニックス・サンズと契約し、日本人初となるNBA選手になったのだ。

第一線で活躍する選手やコーチがズラリ

宇都宮の指揮を執る安齋HC(左)、白鷗大の監督を務める網野(右上写真の右/写真はBリーグ初代王者に輝いた2017年)、三遠の社長を務める北郷(右下写真の左)[写真]=B.LEAGUE、Basketball King


 今年で40歳を迎える田臥世代は今もバスケ界の第一線で活躍中の人材が多い。

 指導者では宇都宮ブレックスのヘッドコーチとして、熱のこもったチーム作りを進める安齋竜三を筆頭に、大学界で指揮を執るのは網野友雄と柏倉秀徳。ヤングメンや2006年の世界選手権で中心選手だった網野は白鷗大学で「大学世代を変えなければ日本のバスケは成長しない」との信念で育成に務めている。柏倉は母校である筑波大女子部の監督として奮闘中だ。

 田臥と能代工の同期でマネージャーを務めた前田浩行は、ドイツリーグで学んだ知識を生かし、日本協会の技術委員会テクニカルハウス部会で情報分析を担当している。bjリーグで抜群の1対1を披露した青木康平はアカデミーを立ち上げ、個人やチームの指導に精を出す日々だ。また、Bリーグ公認アナリストとして、解説やイベントを通してバスケの面白さや見方を広めている佐々木クリスも1980年生まれである。

 そして、先に出た佐藤健介の今は、英語で教える運動塾『spoglish GYM』で子どもたちを指導しているという。塾のオーナーは佐藤の盟友で、早稲田大学卒業後にアメリカで活動した経歴を持つ藤野素宏。彼らのモットーは日本のスポーツに必要な「頭を使いながら動くこと」。藤野もまた、田臥世代の一人だ。

 Bリーグでは田臥勇太宇都宮ブレックス)と五十嵐圭新潟アルビレックスBB)が体を張り続けている。2006年の世界選手権でメインガードを務めた五十嵐のシュート力と脚力は健在。かつて写真集を出すほどの風貌も変わらず、プレー同様に衰え知らずである。

 田臥の影響力は今なお大きく、若者の手本として牽引する。彼らの多くが一途な姿勢で世界に挑戦して学びを得たように、自身が歩んだ経験をリアルに継承し、これからのバスケ界を支えてほしい世代だ。

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