2018.12.22
「FIBAワールドカップ2019 アジア地区2次予選」Window5、11月30日、カタールと対戦した男子日本代表は85-47と快勝した。今度は12月3日にカザフスタンとの対戦が控えているが、試合が行われたのは富山市の富山市総合体育館だ。
この体育館から目と鼻の先にある富山市立奥田中学は、実は馬場雄大(アルバルク東京)と、今回は大学の試合日程のため出場がならなかった八村塁(ゴンザガ大学)の母校なのだ。2歳違いの2人、馬場が中学3年になった時、八村が入学してきた。
今回、馬場と八村を中学時代に指導した坂本穣治コーチにお話を聞くことができた。馬場と八村がどのような中学時代を過ごしのか、そして今活躍する姿をどのように見られているかをうかがった。
さて、2人の話をする前に坂本コーチについて紹介をしたい。1960年生まれの坂本コーチは、地元の高校までバスケをしていたが、卒業後、実家の家業を継ぐために東京の建材店に5年間務めた。その時はバスケから離れていたが、結婚と同時に地元に帰ることになり、高校時代の仲間とクラブチームでプレーを再開した。
「そのころ同級生が富山商業高校の監督をいていて。1994年に富山でインターハイ、2000年には国体が開催されるので、富山商が強化を任されたというのに、富山市出身の選手がいないという。なぜかというと、当時富山市にはミニバスがなかったから。自分も30歳を過ぎ、もう現役を退こうとしていた時で、『小学生を見てくれないか』と言われたのがコーチになるきっかけでした」
しかし、コーチングを教わったことがなければ、指導の現場に立ったこともない。「逆に言うと、それが良かったのかもしれないですね。自分が最初に勉強させてもらったのが中村和雄(元秋田ノーザンハピネッツHC)さん。そして富山国体の時、アドバイザーとして県が招いた原田茂(元樟蔭東高校・短期大学バスケ部監督)先生に本格的に師事しました」
「お父さんの指導を受けていたので、僕が(馬場)雄大に特別何か教えたことはないです。ただお父さんからは『もっと厳しく教えてくれ』と言われましたが、さすがに(笑) 1年の時には175センチくらいあって試合にも出ていましたが、まだ戦力になるというものではありませんでした。2年生の時、北信越大会に出場しました。しかし、1回戦、ブザービターで負けたのですが、そうなった原因は雄大のファール。あの負けは結構効いたんじゃないかな。そういうこともあり雄大は責任を感じていたと思います」
入学当時は特別運動能力が高くなかった馬場だったが、中学3年時には身長は185センチくらいまで大きくなっていた。さらに中学卒業後、敏春氏がコーチを務める富山第一高校に進学した。
「高校に進んで責任感がどんどんついていったと思います。中学時代はどちらかと言えばおちゃらけタイプだったのですが、成長したなと感じます。それと、あれほどダンクをする選手は日本では珍しいのでは。それでバスケの魅力を感じてもらえられればとも思います。しかし、よくスティールから速攻でダンクをしていますが、あれはギャンブル気味にパスを狙う“見切り発車”がたまたま当たっただけだったりするのですけどね(笑)」
「塁が中学に入ってきて、野球は続けないという情報を耳にして。4月、新入生が行う部活見学で塁はバスケ部に来なかったのですが、5月の連休が終わっても部活動が決まっていないみたいだということで、同じ小学校から来た子たちに『とにかく連れて来て』と言ったのがきっかけです。だから最初は全くのバスケ素人。雄大が3年生で塁が1年生でしたから、よくテレビの取材などで『2人が一緒に試合に出ている映像はないですか?』と聞かれますが、本当にないんです。だって無理ですよ。夏までの間に塁はまだ試合に出られる状況ではなかった。出られるようになるのは3年生が引退して新チームになってから。しかも最初はちょっとずつという感じで、2年生の夏になっても半分くらい出せるという感じでした」
今ではNBAのドラフト候補と言われる八村だが、NBAを意識するきっかけになったのは“中学時代のコーチに「将来はNBAを目指せ!」と言われたから”というコメントをよく目にすると思う。その真意を坂本コーチに聞いてみた。
「僕はそれほどNBAには詳しくはないので、ちょっと古いけどマイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズ他)やマジック・ジョンソン(元レイカーズ)が載っている雑誌を見せたり。チームメイトの中には最近の映像を持っている子もいたので、『塁に見せてやって』と。でもそれはNBAに行かせるためのものではなかったのです。本当に行けるとは思ってなかったし(笑)。理由はバスケを辞めさせたくないから。バスケを楽しいと思ってもらうための材料でした。だって現実は厳しいですよ。ミニからバスケをしていた同級生はできても、ボールハンドリングなど自分はできない。いつも凹んでいましたからね」
八村が3年の時、奥田中学は初めて全国中学校大会(全中)に出場する。「北信越には新潟や石川という全中に優勝するような強豪チームが多く、なかなか全国への壁を突破できなかったのですが、塁が3年の時、埼玉全中に出場しました。でも、決して塁のワンマンチームではなかったんですよ。一番点を取っていたのは、現在東海大学3年の笹倉(怜寿/東海大学付属第三高校出身)でしたから。塁はおとなしいタイプで目立たないようにしていたところもあると思います。最近は試合が終わった後のインタビュー映像を見ることも増えましたが、プレーも取材の受け答えも全然違います。こっちがびっくりするくらい自信に満ちあふれていますよね。それはバスケが育ててくれたんだなあと感じます」
「以前、帰省していた雄大と塁が正月の練習に顔を出してくれたことがあって。当時は全くと言っていいほど一緒に練習したことがなかったと思うのですが、2人が入っても全然違和感がなかったことを覚えています。代表の試合でも雄大と塁が2人でコートに出ると、合わせがやっぱり絶妙だなと感じますしね」
最後に坂本コーチに2人へのメッセージを語ってもらった。
「雄大も塁も決してバスケが盛んとは言えない富山で育ちました。これは違う見方をすれば、これからバスケを始めようという子供たちに希望を与えられるはずです。彼らができたのですから、どんなところに住んでいようと他の皆さんがやれないことはないと思うのです。だからこそ2人には輝き続けてほしいですね。それと『謙虚な姿勢だけは忘れるな』と、いつも言っています。それはこれからも地元で応援してもらえるような選手になってほしいからです」
取材・文=入江美紀雄
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