2025.10.11

「スラムダンク奨学金」選考外から自力で渡米…トロイ大・粟田光が語るアメリカ挑戦

NCAA DI、トロイ大に所属する粟田光 [写真]=Troy Athletics
ロサンゼルス在住ライター

 全米大学体育協会(NCAA)1部(DI)に属するトロイ大学粟田光は、新潟市立新潟柳都中学校では全国中学校バスケットボール大会(全中)に出場、決勝トーナメントに勝ち進み、八王子学園八王子高校2年次と3年次と2年連続でウインターカップにも出場した。そして、昨シーズン途中からチームに合流したトロイ大はサンベルトカンファレンス・チャンピオンシップで優勝し、NCAAトーナメント進出。粟田はレッドシャツながら、1回戦で名門ケンタッキー大学と戦うチームを目の前にした。

 もともとアメリカでプレーしたいという気持ちが強かったことから、第16回スラムダンク奨学金に応募。最終選考まで残ったが奨学生にはなれず(同選考では現・川崎ブレイブサンダースの伊久江ロイが奨学生に)自ら渡米。フロリダコースタルプレップ・スポーツアカデミーでアメリカの選手らと張り合った。

 身長172センチでプレップでは控えからの出場だった中、どういう気持ちでバスケに取り組み、結果を出してDI入りを決めたのか。また今後プレップを経由してアメリカに挑戦しようとしている選手へのアドバイスなど聞いた。

インタビュー・文=山脇明子

八王子で培った自立心とディフェンス力がアメリカで通用

八王子2年次、3年次とウインターカップに出場 [写真]=バスケットボールキング

――もともとは新潟出身ですよね? 新潟柳都中学校でのチームメイトには粟田選手と同じく、強豪高校に進学した選手もいますね。
粟田 中学校では、現在明治大学でプレーしている武藤俊太郎の(新潟市立)横越中学校に市民大会の決勝で1回負けましたが、それ以外は負けがなく、全国中学校バスケットボール大会(全中)に出場、そして決勝トーナメントに勝ち進みました。でも決勝トーナメントの1回戦で静岡県の浜松開誠館に負けました。

――その後上京して八王子学園八王子高校に進学し、2年生と3年生のときにウインターカップに出場しました。高校の3年間ではどのようなことを学びましたか?
粟田 高校生になって寮生活になり、すごく自立できました。中学のときは、洗濯とかご飯とか全部親がやってくれていましたし、学校も車での送迎でした。でも高校に入ると、すべて自分でやらなければいけなかったので(精神的にも)成長できたと思います。東京だったので息抜きもしやすい場所で、自分で息抜きの時間もうまく見つけることができるようになりました。

 中学校のときはバスケットができる時間が限られていて、部活と朝練のときぐらいしかバスケの練習ができませんでした。でも高校では練習が終わったあとの自主練の時間も長く取れました。昼はコートが空いているので自分でやったり、夜練習が終わったあとも、マネージャーにリバンドを拾ってもらってやっていました。あと当時は今ヘッドコーチをしている伊東純希先生がアシスタントコーチで、僕の担任でもあったので親しくしてもらっており、2人でスキルトレーニングをやったり、いろいろ教えていただきました。

――3年間でどういう面が一番伸びましたか?
粟田 ディフェンスです。当時はゾーンディフェンスだったんですけど、変則ゾーンとか言われていて、あれでずっと走ったり動いたりしていました。ディフェンスの練習はかなりやっていて、ディフェンスのために必要な力はついたと思います。

――それは、アメリカ来てからも生きていますか?
粟田 そうですね。プレップに行ったとき、それが一番強く感じた部分で、体負けするかと思っていましたが、ゾーンディフェンスをしたときなどコーチから「お前だけはオールコートで当たってついていけ」って言われて、結構スティールもできたので、評価されている部分もそこだと思います。

――高校を卒業して、いろいろな選択肢があったと思いますが、その中でアメリカのプレップに行くことに決めたのは、なぜですか?
粟田 もともと海外でプレーしてみたいと思っていたので、スラムダンク奨学金に応募しました。最終選考まで残ったのですが、当時はコロナの影響で最終選考がビデオ選考となり、受からなかった場合に備えて大学進学の準備も並行して進めたいと考えていました。しかし、伊東先生から「どちらにも迷惑をかけてしまうからダメだ」と言われました。(スラムダンク奨学金の選考を外れたあと)将来バスケットを教えたいという気持ちもあったので、日体大(日本体育大学)に進学して教員免許を取る道も考えました。しかし、バスケ部の枠がもうありませんでした。そこで父と母に相談したところ、「最初から行きたかったアメリカに行けば?」と言ってくれたので、それで決めました。

――その中から、フロリダコースタルプレップ・スポーツアカデミーを選んだのは?
粟田 (スポーツ留学の)エージェントの方と話して、最初はコミュニティカレッジに行こうと思っていましたが、プレップスクールの方から誘いがあって、ズームミーティングしたときに日本からの留学生も取ってみたいと言われて、親も納得してくれる金額まで下げてくれたので行くことにしました。

――プレップスクールの方は、粟田選手のプレーのビデオを見て、それで声をかけてくれたのですね?
粟田 そうです。それで9月から3月までの半年間、プレップでプレーしました。

――アメリカのバスケには、結構すぐに馴染めましたか?
粟田 最初はそんなに馴染めませんでした。今ほど言葉も話せないし、あと距離感とかがつかめなくて。僕は若干シャイなところがあるので、そこでちょっと苦労しました。

――サイズの面で舐めてかかられたことはありましたか?
粟田 試合のときとか、あったと思います。でもプレップの試合では、わりと点数を取れたので、舐められたのが逆に良かったと思います。

――じゃあ、アメリカの選手たちからもすぐにリスペクトを得ることができた?
粟田 そうですね。最初の1カ月ぐらいで練習でも点数が取れるようになってきて、それでパスが回ってくるようになりました。

――プレップで一番自分が見せられたと思うところはどういうところですか?
粟田 ディフェンスとスピードと、スピードから寄せて外にさばいたりするところだと思います。

――試合ではスターターだったのですか、それとも控えでしたか?
粟田 控えからでしたね。

――それまでは、ほとんどそんな経験はなかったとい思いますが、どのように気持ちを切り替えましたか?
粟田 高校1年生のときに全然試合に出られない期間があって、父ともそういう話をして、「別に試合に出られないから悪いというわけではない。出たときに100パーセント出せるようすればいいし、それまでは応援とかベンチでやれることやればいい」と言われました。アメリカに行ったからって100パーセントいい方向に進むとも限らないと思っていましたし、その中で自分ができることを一生懸命やろうと思いながら、出たときにどうしたらいいかというのを考えてやっていました。

――大学進学の準備をするプレップでは、どのような試合を行っているのですか?
粟田 コミュニティカレッジに行って相手をしてもらったり、またシーズンを通してプレップの大会があったり、最後にフロリダ州のプレップで成績をもとにトーナメントがあったりですね。(スカウトの目に留まる機会である)ショーケースも多かったです。

――プレップでプレーした6カ月でDIに行くことが決まったわけですが、その経緯を教えていただけますか?
粟田 プレップのコーチがいろいろ探して動いてくれました。僕としては、DIとかJUCO(コミュニティカレッジ)とか全然レベルとか問わなくていいので、プレータイムをもらえたり、ちゃんと面倒を見てくれるところ、あと授業料をできるだけ抑えられるところがいいと伝えていました。それで最初はJUCOの1校とNAIA(全米大学運動選手協会、NCAAとは別の大学体育協会)の2校からオファーをもらいました。トロイ大から声がかかったのは、実は僕のルームメイトのお父さんがトロイ大のヘッドコーチ(スコット・クロス)で、自分の子どものプレーを見ると同時に僕のことも見てくれて「来なよ」と言われてオファーをもらいました。

河村勇輝の活躍が刺激に…トロイ大でつかんだ手応えと次なる目標

トロイ大ではスポーツマネジメントを専攻する [写真]=Troy Athletics

――昨シーズンはトロイ大への入学が遅れてしまいましたが、何が引っかかってしまったのでしょうか?
粟田 アカデミックの面で、入学に必要な英語のスコアが、ここに来る直前にいきなり上がってしまって、それで全然点数が取れなくて苦労してやっていました。結局入学してチームに合流したのは1月でした。

――その後チームがカンファレンス・チャンピオンシップで勝って、NCAAトーナメントに出場、ミルウォーキー・バックスのホームアリーナ、ファイサーブ・フォーラムで、敗れはしましたがケンタッキー大と対戦するというすごい経験をしました。その間チームに同行していたのですよね?
粟田 夢のような感じでした。まさかNBAのチームのコートに立てると思っていなかったですし、しかも去年までテレビで見ていた世界に自分が映っていたり、その場所に立っているということにすごく感動しました。みんなと同じユニフォームを着て、同じ舞台に立てたらいいなと強く思いました。

――チームへの合流が送れたとはいえ、カンファレンスチャンピオンになったときはネットカットも行い、優勝リングももらったのですよね? シーズンの半分を抜けていてもメンバーの1人として常に置いてくれていることに感じることはありましたか?
粟田 レッドシャツで試合に全然出ていなくて、特に僕はアジア人だし小さいから、放っておかれるかもしれないと思っていたんですけど、チームの一員としてちゃんと見てくれているんだなと思いました。試合形式の練習でも「ここで、ポジションでやって」とか言われたり、ちゃんと混ぜてくれるので本当に感謝しています。

――このオフは、どんなどういうところを伸ばそうと思って取り組んできましたか?
粟田 アウトサイドシュートの確率を上げる。そこが今一番やらなきゃいけない、続けなきゃいけないことで、あと体づくりをこの夏すごく頑張りました。体重は、ここに来るときが68キロぐらいでしたが、今は72~73キロで増えました。

――身長のハンデは、どんなふうに乗り越えていこうと思っていますか?
粟田 僕の一番の武器であるスピードですね。練習中でもスピードでは全然通用するというのは分かっているので、そこをうまく伸ばして。それプラス、アウトサイドとか河村勇輝選手(シカゴ・ブルズ)みたいな感じに伸ばせたら、もっと良くなれるんじゃないかなと感じます。

――やはり参考にしているのは、河村選手ですか?
粟田 はい。同じサイズで、ほとんど身長も体重も変わらないのに、あそこまでプレータイムをもらえて、何が違うんだろうなっていうのをずっと見たりしています。

――もし、河村選手に会ったら、どんなことを聞いてみたいですか?
粟田 どのくらい自分を信じられているのかなっていうのを聞いてみたいです。

――英語の成績で入学こそ遅れましたが、スポーツをしながら勉学でも優秀だった選手としてサンベルトカンファレンスから表彰されましたね。
粟田 今まで勉強で褒められたり評価されるということがなかったので、家族からもびっくりされました(笑)。勉強は全然得意でもないので、ちょっとうれしいです。

――大学に入ってからは結構勉強も頑張っていたのですか?
粟田 ほぼ毎日、夕飯後図書館に行って勉強していました。課題がないときも英語の勉強だけはしておこうと思って図書館に行って単語帳をずっと見ていました。

――アメリカの大学の勉強についていくのは難しいですよね?
粟田 結構難しいです。だから予習しています。

――メジャー(専攻)は何を取っているのですか?
粟田 スポーツマネジメントです。コーチになりたかったのは、僕もプレーしていたミニバスでコーチをしていた父や今まで関わってきたコーチの方々が楽しそうに教えていて「いいな」と思ったからで、将来バスケット関係の仕事につきたいなと思っています。スポーツマネジメントを取ったのも、最近ワールドカップとか日本でバスケットが盛り上がっていますが、まだ浸透してない部分があるので。それでバスケットを通して貢献したいというか、僕自身、地域とかいろんな方に支えてもらっていたので、それで恩返しができればいいなと思ったからです。

――最近は、粟田選手のように高校卒業後、渡米してプレップでプレーする日本人選手も増えました。今後アメリカを目指して来る選手たちに何かアドバイスするとしたら、どんなことになりますか?
粟田 一番は自分を信じることだと思います。「どれだけできるか」とかじゃなくて、「自分が何をやってきたか」というのを大切にしたら、自然とうまくいくと思います。あとは、「どれだけバスケットに時間を注げるか」ですね。

――選手としての目標は?
粟田 プロの選手になりたいです。Bリーグも憧れですが、せっかく英語を話せるようになったので、海外もいいなと思っています。長くバスケットを続けたいです。

――今季はどんなふうに過ごしたいと思っていますか?
粟田 一番はバスケットなのでそこに一番の情熱を注ぎながら、悪い成績をとらないように勉強もして、いろんな人にちゃんと顔向けできるようにしたいと思います。また今は普通の留学生より学費を低くしてもらえているのですが、とにかく頑張って奨学金を得て、親の支払いの負担を取り除いてあげたいと思っています。

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