2017.01.10
新リーグ開幕を契機にアルバルク東京がクローズアップされ、自身は中心選手として取りあげられた。将来の日本を背負って立つであろう田中大貴は“エリート”として担ぎあげられたが、実際は“雑草”かもしれない。「中学生の頃は全国で有名な選手ではなかった」彼は、県外の強豪校への入学をあきらめ、長崎西高校へと歩を進めた。新天地ではいきなり、恩師から「絶対に日本代表に入れる」と太鼓判を押され、その言葉に促されるように努力の日々を送る。「高校生の中で一番思い出に残る大きな大会」ウインターカップに3年連続で出場。しかし順風満帆に見えて、実のところこの高校時代に一度、バスケットを続けるか辞めるか悩んだという。後に名門大学への扉を開き、名門クラブに見初められ、そして“エリート”と呼ばれるようになった田中の原点とも言える3年間を振り返ってもらった。
インタビュー=橋本知英
写真=兼子愼一郎
――まずは中学生の頃のお話から聞かせてください。中学生の頃はどういったプレーが得意だったのですか?
田中 中学生の頃は身長がそこまで大きくなくて170センチちょっとだったので、今と同じポジションで自分でボールを運んだりシュートを打ったりと、結構自由な感じでやっていました。
――強豪校だったんですか?
田中 僕らの代では長崎県で一番でした。でも、九州大会で負けてしまったので、全中(全国中学校バスケットボール大会)には出場できなかったんです。
――練習はハードでしたか?
田中 そうですね。多分、一番練習していたのは中学時代かなと思います。練習時間も長かったですし、夏休みも朝から夕方まででした。それからうちの学校は陸上部員が少なかったので、バスケ部から派遣されてました(笑)。朝からバスケやって途中で陸上をやって、またバスケをやる、みたいな日々でしたね。
――それはハードですね。
田中 陸上は大会にも出場しなくてはいけなくて。陸上部員が3人だったので、バスケ部から結構な人数が出場していました。
――その後、長崎西高校への入学はどういった経緯で決めたのでしょうか?
田中 僕は中学生の頃は全国で有名な選手ではありませんでした。自分としては県外へ行きたい気持ちを持っていましたが、そこまでのレベルではないと思っていたので、長崎県内の高校に行こうと。それでもインターハイやウインターカップなどの全国大会には出たいと思っていたので、当時、県内で一番強かった長崎西に行くことを決めました。
――実際に長崎西のバスケ部に入部して、レベルはどう感じましたか?
田中 やっぱり中学校とは違ってレベルが高いなと思いました。全国レベルというのを僕は全然知らなかったので、長崎県内の高校でしたけど最初はレベルが高いと感じていました。
――その頃から身長は高くなっていたんですか?
田中 ちょうど高校に入った頃に伸び始めて、180センチ台後半にはなっていました。でも最初は体の大きさも全然違いましたから、「やっていけるのかな?」という感じでした。
――そういう風にちょっと不安を抱えた時、「やってやろう」と思うタイプですか? それとも、あまり感情は出さない方ですか?
田中 あまり表に出すタイプではないと思うんですけど、とにかく高校に入った頃はついていくことに必死だったんですよね。それから、中学生の頃は実家から学校に通っていたんですけど、高校からは寮生活だったこともあって何をするにも初めてという感じでした。初めの頃はいろいろなことに緊張していたのを憶えています。
――寮生活だったんですね。バスケットをするために親元を離れるというのは大きな決断だと思います。
田中 でも当時は、その先のことは何も考えていなかったと思いますよ。自分がずっとバスケットを続けるとも、全く考えていなかったので。
――特別な練習や思い出に残っている練習などはありますか?
田中 うーん、ディフェンスの練習しかやらなかった印象ですね。割合で言ったらディフェンス8、オフェンス2って感じで。あと、長崎西は進学校だったので、練習時間も1時間半ぐらいで多くても2時間って決められていたんです。
――勉強の方が優先という感じですか?
田中 そうです。学校の方針はそんな感じでした。だから短い時間でしっかりと練習をしていました。本当にディフェンスの練習ばかりでしたよ(苦笑)。
――なるほど。田中選手はシュート成功率が高かったりボールを運んだりする選手なので、そういった練習も多いのかなと思っていました。
田中 シュート練習などは個人的にはやっていましたけど、チームとしてはオフェンスの練習をやったか憶えていないぐらいディフェンスの練習が多かったです。
――個人的なシュート練習は、どういった内容だったんですか?
田中 当時、どんなことを考えてやっていたかは憶えていませんが、とにかくシュート練習をしていました。練習時間が短かったので「もっとやらなくてはいけないな」という思いが強くあって、空いている時間に練習をしていました。テスト期間中は体育館に入ってはいけなかったんですけど、こそっと行ったりもしていましたよ。勉強をしたくなかっただけかもしれないですけど(笑)。
――入部当時は「やっていけるかな」と感じていたということでしたが、高校1年生の頃から試合に出場されていたんですよね?
田中 はい。出させてもらっていました。
――出場できるようになったきっかけや、ご自身の中で「これが良かったからかな」みたいなことはありますか?
田中 身長が一気に伸びたこともあったと思います。それと、もともと背が低い方だったので、周りの選手よりいろいろなことをできるようになっていたのかもしれないですね。あと、長崎西はディフェンスをしっかりできないと試合に出場させてもらえなかったのですが、僕はディフェンスに苦手意識がなくすんなり入っていけたので、それもあったかもしれないです。
――ウインターカップも1年生、2年生、3年生と3年連続で出場しています。どんな思い出がありますか?
田中 1年生の時はやっぱり緊張しました。先輩方の実力が高かったのでメインコートを目指してやっていたんですけど、1回戦で負けてしまって、悔しい思いが残った大会でした。僕が1年生の時のメンバーは寮生活でもずっと一緒だったこともあったので。進学校だったので一学年に1人や2人ぐらいしか推薦の人がいなくて、推薦の人たちはみんな寮生活だったんです。プライベートもずっと一緒ですごくかわいがっていただいたので、試合で負けてしまった時は本当に悔しかったです。
――寮生活でプライベートも一緒だとより絆も深まりますね。
田中 そうですね。だから負けてしまって3年生が悔しがっているところを見て、僕も思うところがありました。本当にかわいがっていただいたので。
――そういった思い出のある大会に、3年生で出場した時はどんな想いで臨んだのですか?
田中 まず、ウインターカップの前にインターハイに出られなかったんです。出場できないと決まった時に、バスケットを辞めようと思いました。バスケットを辞めようと思ったのは、あの時が初めてです。長崎西は進学校でしたから、メンバー全員がインターハイの後ウインターカップまで残るわけではないんです。バスケットを続ける人もいるけど、勉強に専念する人もいて。僕もものすごく悩んだ時期があったんですけど、もう一回がんばろうとなって……。いろいろとあったので、ウインターカップへの出場が決まった時は、まずホッとしたというか、それが3年間で一番うれしかったです。
――インターハイに出場できなくて辞めようと思った時、それでも続けようと思ったきっかけは何だったんですか?
田中 僕を長崎西に入れてくださった部活の先生が、高校2年生の時に代わってしまったんです。学校にはいたんですけど、部活を指導していただけなくなって。でも、僕らがインターハイに出られないと決まった後に、またメインで指導してくださることになったんです。それで、またやろうと思えるようになりました。ちょっと話はずれてしまいますが、その先生は僕が高校に入った時、今まで全国大会にも出場したことがなかったのに「絶対に日本代表に入れる」と言ってくれたんです。僕自身は何でそんなこと言われたのかよくわからなくてピンと来なかったんですけど、高校でバスケをやっていくうちにアンダーカテゴリーの代表にも呼ばれるようになって、徐々に「もしかしてやっていけるんじゃないかな」と思えるようになりました。その言葉が常に頭にあったので、ずっとがんばれたというか。その先生の存在が僕の中で結構大きかったんです。
――いろいろなことがあって、そして迎えた3年生のウインターカップはどんな思い出がありますか?
田中 確か3回戦で明成高校に負けてしまいました。もちろん悔しかったですけど、やりきった思いもあったので結構あっさりしていたかもしれないです。
――ウインターカップで得られた経験で、今に活かされていることはありますか?
田中 ウインターカップの会場の雰囲気を味わえた経験です。本当に独特なものがあって、すごくワクワクしたことを今でも憶えています。欲を言えばメインコートに立ちたかった想いがありますけど、それでもあの雰囲気を味わえたことは良かったなと思っています。1年生の時に出場して負けてしまって、また次も絶対に出場したいと思いましたし、高校生の中で一番思い出に残る大きな大会だと思います。
――インターハイなどの試合で悔しい思いをした以外に、ケガなどで苦しんだりなどつらい出来事はありましたか?
田中 僕は大きいケガをあまりしたことがないので、そういったことは特にないですね。だから、強いて挙げるならインターハイに出場できなかったことです。悔しかったというか、情けないなと思いました。何もしたくなくて喪失感もありましたから。
――全国大会や練習試合などで、高校時代に思い出に残っている試合はありますか?
田中 2年生の時のインターハイで、明成高校に2点差で負けた試合です。それまでいわゆる全国の強豪と試合をしたことがなくて、その試合が初めてだったんです。試合終了間際に僕たちのチームがシュートを打って、ファウルだと思ったんですけど笛が鳴らなくて負けてしまったんです。でも、負けてしまいましたが、2点差でいい勝負ができました。自分たちがやってきたことが間違っていなかったんだなと確認できた試合でしたし、たぶん、僕はその試合で大学からも声を掛けていただけたと思うので。あの試合は「自分もやれるんだ」と思えた試合になりました。
――2年生の時に大学から声が掛かったんですね。でも、大きな大会でなければそういった機会は少ないかもしれないですね。
田中 長崎県内の大会で見に来てくれるかといったらそうではないですから。九州大会はレベルが高かったので見てもらえるチャンスはありましたけど、それでも自分は明成高校といい勝負をした試合を見てもらえたからこそだと思っています。その試合が後々にもつながったのかなと。
――田中選手はご自身を努力してはい上がったタイプだと思いますか? それとも、運もあったと思いますか?
田中 めちゃくちゃ努力をしたかはわからないですけど、全国の強豪校にいたわけではなく長崎のレベルがそこまで高いとは言えない中で、それでも今、自分がこの場にいられるのは前者だからかなと思います。先ほどもお話ししたように、高校の先生から「日本代表に入れる」と言われて、それを目指してずっとやってきたので。
――高校時代、良い刺激をもらったライバルはいましたか?
田中 高校時代は全国で名前が挙がっている選手には負けたくないなと思っていました。同じ九州に福岡第一高校などの強豪校がいましたし、そういう学校と対戦した時も「負けたくない」という想いを持って意識していました。いい意味で目標のように思っていたところもありましたね。
――特定の選手でライバルはいなかったんですか?
田中 それはいなかったですね。強豪校に負けたくないな、という想いでした。
――ご自身がプロ選手として大事にしていることがあれば教えてください。
田中 僕は小さい頃からあまり有名ではない学校でずっとバスケットをやってきました。でも、その中でコツコツと積み重ねて今こうやってプロとしてやれているのは、自分の中で自信になっています。ずっと表舞台で有名選手としてやってきたわけではないからこそ、いつまでも勘違いせずに、しっかりと努力することが大事だなと思いながらやっています。
――バッシュを選ぶ際、フィット感など重視しているところはありますか?
田中 重いものよりも軽い方が好きです。あとは、キュッと止まる時の感覚を大事にしています。
――足首周りはキツめだったり緩めだったりと好みはありますか?
田中 ローカットのものが好きなんですよ。今まで捻挫もほとんどしたことがないので足首に対する不安はありません。なので、足首が固定されているかとかはあまり気にしないです。
――デザインはいかがですか? カラーは目立つものやシンプルなものなどいろいろとありますが。
田中 何にでも合わせやすいので、ブラックが好きです。
――サイズはピッタリのものを選ぶなど、細部へのこだわりはありますか?
田中 サイズは少し余裕があるものを選びます。ピッタリ過ぎるものはあまり好きではないですね。
――自分に合うバッシュというのは、履いた瞬間に「いいな」と思うものですか?
田中 それは思いますよ。見た目で履きやすそうだなとか、履いた瞬間にいいなとか。逆に自分には合わないなというのもわかります。
――高校生がバッシュを選ぶ時のアドバイスがあれば教えてください。
田中 僕は今でこそ自分に合っているかどうか気にするようになりましたが、高校生の頃は結構デザインだけで履いていた感じでした。多少重くてもカッコいいと思ったら履いちゃってましたね。なので、好きなバッシュを履くのが一番かなと思います(笑)。
――いずれ自分に合うバッシュに目覚める時が来ると?
田中 そうです。それに、好きなバッシュを履くことで、モチベーションも上がりますから。僕もそうでしたが、高校生だと新しいバッシュを履きたい人の方が多いと思うので、自分がいいなと思うものを選ぶのが一番いいと思いますよ。
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