2023.05.30

鈴木貴美一が刈谷での28年間を振り返る【前編】常勝軍団に仕上げたチームビルディング

28年間、アイシン、シーホース三河を指揮した鈴木貴美一氏 [写真]=B.LEAGUE
ライター・カメラマン

 30秒ほどだっただろうか。拍手が鳴り止まなかった。MCが写真撮影を促すアナウンスを入れなければ、おそらくもっと長く続いていただろう。

 1995年、それまで縁のなかった愛知県刈谷市に赴き、日本リーグ(JBL)2部に所属していたアイシン精機シーホースのヘッドコーチに就任。その後、JBL1部、NBL、そしてBリーグシーホース三河と、同チームを28年間率いた鈴木貴美一ヘッドコーチ。その間、6度のリーグ優勝。4連覇を含む9度の天皇杯制覇、Bリーグ開幕後も2度の地区優勝と数々の栄光をチームにもたらした。名将の最後のあいさつに、ファン・ブースターは割れんばかりの拍手で感謝を伝えた。

 今回、今シーズンでシーホース三河を去る鈴木HCのインタビューで、この28年間の偉業を振り返る。

取材・文=山田智子

選手・ファンの笑顔が続けるモチベーション

 28年間も続けられたことは、本当に奇跡ですよね。必ずしも成績が悪いという理由だけではなく、優勝しても辞める人もいますし、成績が良くてもステップアップしたいと別のチームに移る人もいますから。

 続けられた一番の理由は人に恵まれたことですね。(親会社の)アイシンをはじめとして、ずっと信用して任せてもらったし、いい選手もたくさん来てくれました。ファンの方たちはホームだけでなくアウェーにも足を運び、いつも温かい声をかけてくださいました。本当に感謝しています。

 退任を発表してから、ずっとメールが止まらないんですよ。返事が追いつかない。改めて、こんなにたくさんの人たちに支えていただいていたのかと実感しています。

 僕の場合は、同じ地域にいること、同じチームで、同じ人たちと続けることに飽きなかったことも大きいと思います。毎年新しい選手が来てくれると、それがうれしいんですよ。新しい選手をどうやって育てて、どうやってチームを強くしようかと、ワクワクしながら体育館へ行っていました。

 僕はこの仕事が好きでやっているのではなくて、得意だからやっているんですね。侍ジャパンの栗山英樹監督が「(監督業は)10億(円)もらってもできないほど大変な仕事」というようなことをおっしゃっていましたが、本当に孤独だし、辛いことの方が多いんです。負けた日は誰も電話をかけてこない。勝った日はかけてくるのに……(笑)。

 でも、将来有望な選手が来てくれて、彼らが成長して、いいチームになっていく。試合に勝って、選手やスタッフ、ファンの人たちが笑顔になる。それが何よりの喜びで、続けてこられました。だから、そういう仲間と別れるのは寂しいよね。

 これからは少しゆっくりしながら、会いたい人に会ったり、子どもたちのバスケットボールクリニックや講演の話もいただいているので、いろいろな仕事をしたりしていきたいなと考えています。

 でも優勝の感覚って格別で、忘れられない。もう一度味わってみたいなとは思います。まだ体が動くので、また現場に戻ることもあるかもしれません。やはり最も悪い成績で辞めるというのは少し嫌ですから。

今季最終戦後の会見で自らチームを離れることを発表した [写真]=B.LEAGUE

選手の特徴を活かしたチームを作る

 僕はもともと野球をやっていて、バスケットボールを始めたのは高校からなんです。スタートが遅かった分、常に勉強するということは選手時代から続けてきました。

 いつも色々な資料を入れているので、僕のカバンはすごく重いんです。ファンの方からも、「いつも大事そうに持っているけど、そのバッグには何が入っているの?」なんて聞かれますが、その年に新たに学んだこと全部書き込んだプレイブックが入っています。1年で300ページくらい。家にはそれが28年分がずらりと並んでいます。

 28年間、常に肝に銘じてきたのは、コーチは選手の鏡だということです。常に選手12人、24個の目で見られています。だから、どうやって人間力を高めるかをずっと考えてきました。

 何をやるにしても、この辺りでいいやと妥協するようになったら、終わりの時なんです。こういうことをやりたいと思った時にできない環境になったら続けられないと思っていたので、そういう意味でも28年間続けられたのはありがたいことです。

 チーム作りの方法は色々とありますが、僕は来てくれた選手に合わせてチームを作ってきました。毎年違うバスケットボールをやっているのは、僕だけじゃないですか?

 僕がアイシンに来た時は、日本リーグ(JBL)2部の4位で、無名のチームでした。勝つためにたくさんルールを決めて、ディフェンスのチームを作りました。2部ではゾーンディフェンスをして、それがはまって1部に上がることができました。でも1部になるとゾーンディフェンスが通用しなかった。だからディフェンスのルールを色々と決めて、オフェンスは、ベテランの選手が多かったので、ハーフコートを中心としたバスケットを長い間やってきました。

 28年間で一番印象に残っているのは、優勝した時ですね。僕が三河に来た時に、「5年で日本一を獲ってほしい」と言われて、丸6年かかって(2002年天皇杯で)初優勝しました。その年のリーグ戦のプレーオフファイナルでトヨタ自動車と対戦しました。その時はまだジェイアールは帰化していなくて、トヨタには超一流の選手がそろっていて、(第1戦は)延長戦になって85-82で勝ちました。その年は天皇杯とリーグ戦の2冠、翌年も連覇をして。2冠は計4回達成することができました。天皇杯4連覇を2回したのは、100年の歴史の中でうちだけなので、歴史を作ることができました。

 1度目の(天皇杯)4連覇の後に柏木真介選手が来てくれて、少しずつ若いいい選手が来てくれるようになって、Bリーグの前は古川孝敏選手、高島一貴くん、ギャビン・エドワーズ選手とかディフェンスの上手い選手がいて、完全にディフェンスチームでしたね。

かつて三河でプレーした千葉Jのエドワーズ(左) [写真]=B.LEAGUE


 ディフェンスでコントロールするバスケットの方が勝利には結びつきやすいのだけど、Bリーグになってからは、勝つことだけではなく魅せることを考えるようになりました。だからオフェンスの練習を多くしましたし、比江島慎選手、金丸晃輔選手などオフェンス力のある選手を中心にしたオフェンス志向のチームに変えました。

宇都宮の比江島(右)も三河でプロのキャリアをスタートさせた [写真]=B.LEAGUE


三河の貴重な戦力だった三遠の金丸 [写真]=B.LEAGUE


 僕がこれだけは譲れないと考えているのが、ターンオーバーの数です。いいチームとは正確なチームだと考えているので、ターンオーバーの少なさでは28年間常に上位に位置しています。今年のチームの目標はディフェンスの強化とターンオーバーを減らすこと。失点数は70点台(79.3点)に抑えられ、ファストブレイクの成功率はシーズン通して常に島根と首位争いをしていました。ハードにディフェンスをして、そこからファストブレイクを正確にやるという点で、目標を達成できたと感じています。

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