2024.05.04
トッププレーヤーに高校時代のことを振り返ってもらうインタビュー企画。今回は北陸高校(福井県)出身の高島紳司と、中部大学第一高校(愛知県)出身の中村拓人が登場。高校卒業後はともに大東文化大学に進学した二人に、当時の互いの印象などを含めて話を聞いた。(インタビューは2022年11月実施)
取材日=11月13日
インタビュー=峯嵜俊太郎
写真=野口岳彦
――同級生のお二人ですが、初めて会った時のことを覚えていますか?
中村 僕は覚えています。中学校のジュニアオールスターの時、僕が愛知代表、紳司は大阪代表に入っていて練習試合で対戦したんです。
高島 覚えてないなぁ…(笑)。
中村 大阪代表は全体的に身長が高かったんですけど、そのなかでも紳司は腕が長くて、そこがすごく印象に残っています。
高島 僕が覚えているのは高校に入ってから。拓人は年代別日本代表にも入っていたので名前は知っていて、中部第一と練習試合をした時に「これが中村拓人か」って感じで。でも実際にコミュニケーション取るようになったのは、大学の入試の時からですね。
――改めて大学でチームメートになってから、お互いの印象はいかがでしたか?
高島 僕は「中村拓人が来る」と聞いたから大東(文化大学)に進学したところもあるので、代表に入ったりウインターカップですごい成績を残している選手とプレーできるのはうれしかったですし、実際にチームメートになってからも改めてすごい選手だなと思いました。
中村 紳司のことはなんでもできる選手だなとずっと思っていましたけど、そのなかでもシュートは特にうまいなと感じました。性格的にはいい意味で落ち着いている印象が強かったです。
高島 逆に拓人はみんなの中心で盛り上げているタイプ、という印象ですね。
――ここからはそんなお二人のこれまでを振り返っていきたいのですが、まずはバスケットを始めたきっかけを教えてください。
中村 僕の家はバスケ一家だったので、覚えていないくらい小さい時からボールは触っていましたね。JBLの試合とかも毎週のように見に行っていて、自然と自分もバスケットを始めていたという感じです。
高島 僕がバスケットを始めたのは小学3年生の時です。お姉ちゃんがミニバスをやっていたので、その影響で。実は最初はあんまり好きじゃなくて、練習も行きたくないような子どもだったんですけど、気付けば好きになっていましたね。
――それぞれ小学生や中学生の時の実力はいかがでしたか?
中村 全然でした。中学も強いチームではなくて、同じ地区に岩成台中学校という富永啓生や横地聖真のいたチームがあったので、毎回そこに負けて県大会出場を逃すという感じでした。
高島 僕は中学の時から身長が高くて、インサイドだけでなく外のプレーもやっていたので、割といろいろできる選手ではありました。ただ、チームは市内では強い方というくらいだったので、県大会とか全国とかは全然考えられるレベルではなかったです。
――お互い中学時代は決して強いチームではなかったなか、高校では高島選手は北陸高校、中村選手は中部大学第一高校という強豪に入学します。どのようなきっかけがあったのでしょうか?
中村 完全に兄貴(中村浩陸/ファイティングイーグルス名古屋)の影響ですね。中学2年くらいから中部第一に行くことしか考えていなかったです。もともと兄貴の試合を見に行っていたので監督とも知り合いでしたし、直接誘ってもいただいたので、迷いはなかったです。
高島 僕は高校では確実に全国大会に出たいという思いがあって、毎年のように出場校が入れ替わる大阪ではなく、県外に進学することを早いうちから考えていました。そのなかで声を掛けてくれたのが北陸高校。試合に出られるかは分からないけど、行けば確実に自分のためになると思って入学を決意しました。
中村 僕も小さい時からの夢がプロになることだったので、そのためにも高校は全国大会に出られるチームで、と考えていましたね。愛知県だと桜丘も強かったんですけど、兄貴の影響もあって中部第一を選びました。
――強豪校に入って、練習やチームメートのレベルの高さに驚きはありましたか?
中村 練習がキツイというのは聞いていたし、見ていたので、ある程度覚悟していたおかげでそこまで驚きはなかったです。ただ、中学の時に始めて中部第一の練習を見た時は、「ちょっとヤバいな…」とは思いましたね。
高島 僕は周りの選手のレベルの高さに圧倒されて、「このなかでやっていけるのかな…」と不安になったのを覚えています。
――印象的な先輩はいましたか?
中村 当時の中部第一には自主練をペアでやる制度があって、僕は1年生の時は上澤俊喜さんと、2年生の時は坂本聖芽さんと組んでいました。その2人には特にお世話になったので、印象は強いです。
高島 僕は一つ上の二上耀選手が自分と体格が似ていたこともあってすごく印象に残っています。当時から本当になんでもできる選手でした。あとは岡田泰希選手のシュート力もすごくて、圧倒されましたね。
――お二人は1年時のウインターカップでもメンバー入りしていますが、インターハイとはまた違った感慨があったのでは?
高島 やっぱり憧れの場所だった東京体育館でやれるというのは気持ち的に大きくて、たくさんのお客さんも入っていましたし…。
中村 特別感はあったよね。
――結果として中部第一は2回戦で福岡第一高校に、北陸は準々決勝で東山高校に敗れて大会を終えました。
中村 その福岡第一戦は鮮明に憶えています。インターハイでも福岡第一に負けていたので、ウインターカップは組み合わせが決まった時から福岡第一の対策をしていました。実際、終盤までずっと僕たちのペースだったんですけど、第4クォーターに相手のオールコートプレスにハマって、一気に逆転されてしまって…。相手の勢いを全く止められなかったので、すごく印象に残っている試合です。
――高島選手は印象に残っている相手はいますか?
高島 東山の岡田侑大選手や(カロンジ・カボンゴ)パトリック選手は印象的でしたが、チームとしては初戦の福岡大学附属大濠高校との試合が印象に残っています。あんなに超高校級の選手がそろっているチームを相手に、正直勝てるとは思っていなかったので。1年目でそんな強いチームと対戦できたのは、ありがたかったですね。
――2年生になると、お互いチーム内における立場も変化したかと思います。
中村 2年生になってからはスタートにもなったので、自覚や責任感は芽生えましたね。
高島 逆に僕は2年生の最初の方はケガの影響もあってあまり試合に出られませんでした。メンタル的にも結構落ち込んで、自分のことで精一杯だった印象です。
――その後、2年生のインターハイにはどのような心境で臨みましたか?
中村 プレッシャーはそこまで感じず、とにかく勝ちたいという一心で臨んでいたと思います。
高島 僕はインターハイの時もやっぱり自分のことで精一杯。チームのための責任感とか、そういうことを考える余裕もなかったです。実際、1回戦は出ましたけど2回戦は出られず、チームもそこで負けてしまったので。
――その敗れた2回戦の相手は、富永啓生選手擁する桜丘高校でした。
高島 そうですね。ボコボコに負けました。多分あの試合で「富永啓生」という選手の名前が一気に売れ出したんじゃないかと思います。
――最終スコアは83-71でしたが、そのうち41得点を富永選手が記録しています。
高島 富永選手にもやられたし、ほかの選手にも好き放題やられて。もうどうしようもなかったですね。富永選手のことはそれ以前から名前は知っていましたけど、想像以上でしたね。
中村 同じ愛知県出身なので、僕はよく知っていましたね。啓生は1年生の頃から桜丘で試合に出ていて、当時からシュートが鬼のように入る“ヤバい”選手でした。一方で北陸の強さも知っていたので、「あの北陸からあんなに点を取るのか」とすごく印象に残っている試合です。
――一方、中村選手は4回戦で福岡大学附属大濠高校に敗れ、ベスト8で大会を去ることとなりました。
中村 あの試合は主力選手がファウルトラブルに陥ってしまって、序盤に点差を離されて。何も試すこともできず、そのまま試合が終わってしまったという印象です。
――1年次の夏と冬に続き、2年次の夏も福岡勢に敗れ、チームとして並々ならぬ思いも芽生えたかと思います。
中村 僕が入学する前の年は、兄貴の世代が福大大濠を破り、ウインターカップでベスト4になっているんですけど、かなり接戦だったので、当時から意識はしていました。けど、自分の代では1年の夏冬、2年の夏とその後のウインターカップでもベスト8で福岡第一に負けているので…。正直、「また福岡か…」という思いはありましたね(笑)。
――高島選手はウインターカップにはどのような気持ちで臨みましたか?
高島 僕個人としては結構状況が変わって、スタメンで出してもらえるようになっていました。特に何かきっかけがあったわけではないんですけど、めげずに努力し続けたこと。元々好きだったシュートを、武器として明確に磨いたことで、使ってもらえるようになったのかと思います。
――当時、北陸高校は3回戦で帝京長岡高校(新潟)と対戦し、接戦の末に70-79で敗れています。
高島 主力としてすごく長い時間試合に出させてもらいましたけど、あまり役に立てなかったという印象が強い大会です。特に帝京長岡は同じ北信越勢だったので、より悔しさは強かったですね。
――お互い悔しさが残るなかで2年生の大会を終え、3年生では共にチームのキャプテンとなります。就任の経緯は?
中村 中部は入学時から学年ごとに1人リーダー役のような選手がいて、3年生の時は自然とその選手がキャプテンをやるという流れがありました。僕も1年生の時にリーダーを任せられたので、3年の時は自然とキャプテンになったという感じです。
高島 自分は同年代のなかで一番試合に出ていたというのが一番の理由だったと思います。監督の奥さんから、篠山竜青選手の話などチームの昔話も聞いていたので、「そんなチームのキャプテンになるんだ」というプレッシャーはめちゃくちゃ感じました。
――キャプテンとして意識したことは?
中村 とにかく、自分のことよりも周りのことを考えようと思っていました。監督の意思をチーム全体のどうやって伝えるかなどをすごく意識して動いていたと思います。
高島 僕の場合は、今までの先輩を真似するというよりも、自分は自分のキャプテン像を見せようと考えていました。具体的には、言葉よりは行動で見せようと意識していましたね。
――キャプテンとして臨むインターハイは、それまでとはまた違う難しさもあったのではないでしょうか?
高島 そうですね。自分の代でチームをすぐに敗退させるようなことはしたくないと、強く思っていました。結果としてベスト8まで勝ち進んだんですけど、ベスト8で満足していいチームではないので、率直に悔しい大会でしたね。
――その甲斐もあってか、中部第一はインターハイ準優勝を果たします。
中村 僕自身はU18アジア選手権が行われていたタイで試合のライブ配信を見ていました。チームがどんどん勝ち上がるのはうれしかったですけど、「自分がいなくても勝てている」ということに、どうしても悔しさはありましたね。もちろんうれしい気持ちの方が大きいんですけど、複雑でした。
高島 実はインターハイ前に練習試合をやって、僕たちは中部をボコボコにしたんですよ(笑)。だからまさか中部があそこまで行くとは思わなくて、結構驚きましたね。
――高島選手個人としても得点が伸びず、かなり苦しんだ試合だったかと思います。
高島 4得点でした、めちゃくちゃ覚えてます。言い訳みたいになりますが、会場の武蔵野の森(総合スポーツプラザ)は東京体育館より少し大きくて、雰囲気も全然違ったことで緊張が高まり、シュートが入らないまま悪い流れを断ち切れませんでした。それでもう自分のことで精一杯になってしまい、チームのことにも気が回らず、そのまま負けてしまった。
――結果として、すごく悔いが残る終わり方になってしまったんですね。
高島 実はインターハイでは飛龍に勝っていて、向こうとしてはリベンジの思いが強かったんだと思います。一方で自分たちは、どこかで「負けないだろ」という気持ちがあったのかもしれません。実際、前半終了時点では16点差で勝っていたので、油断があったんだと思います。
中村 僕もその試合はよく覚えています。同じコートで次に試合をするのが僕らだったので、最後の3分くらいはコートサイドで見ていたんです。ハーフタイムでのスコアも知っていましたし、それこそ練習試合でボコボコにされていたので、北陸が勝つだろうなと思っていたなか、まさかの結果でした。
――実際、中部大第一は当時の大会で決勝進出を果たし、またも福岡第一高校と対戦することとなります。
中村 試合が始まる前から「また福岡第一か」とは思っていました(笑)。試合としては、前半はそこまで点差を離されなかったんですけど、後半に自分たちが崩れてしまい、向こうの勢いも止まらず。最後はなすすべなく、42-80という大差で負けてしまったという印象です。
――高島選手は今ではプロの舞台でもその得点力で注目を集めています。
高島 それはたまたまです(笑)。
中村 違います。全然たまたまじゃないです(笑)。
――お二人が、高校3年間を通して一番成長したと思う部分はどこですか?
中村 「人間力」という部分は入学する前と卒業した後では本当に変わったと思います。バスケットに対する姿勢であったり、周囲の人たちに対する考え方や、思いの部分も成長できたと思います。
高島 自分も同じような感じで、バスケットに対する考え方もそうですし、人との接し方、考え方はかなり変わったと思います。
――ちなみに高校時代の同年代で特に印象的で、衝撃的だった選手は誰ですか?
高島 自分は富永啓生選手ですね。2年の時にやられているのもそうですし、年代別の日本代表でも活躍して、最後のウインターカップでも得点王を取った。本当にすごかったです。
中村 僕は個人的にめちゃくちゃ意識していたのが河村勇輝選手でした。代表でも一緒でしたし、福岡第一と試合をして負けることが多かったので、1学年下ですけど意識しまくってました。
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